2012年7月5日木曜日

揺らめく空気  「真珠の耳飾の少女」   <きらめく星座3>

                          真珠の耳飾の少女 ヨハネス・フェルメール 
                          1665年ごろ マウリッツハイス美術館

「真珠の耳飾の少女」の左目と右目は、指摘されているように、たしかに微妙にずれている。モデルを見る画家の目が揺れ動いているからだとの意見があるらしい。

対象を見る画家の目が動いているのは当然のことだ。よく知られているように、セザンヌが描くサント・ヴィクトワール山の輪郭線は二重、三重にダブっている。
セザンヌのりんごを描くタッチはダブりながら横にずれていく。セザンヌの目が動いているからだ。でも、それが重要なのではない。
震える輪郭線やずれるタッチは山やりんごなどの物とそれを取り囲む空気とを通いあわせて空間にふくらみをだしていることが重要だ。

フェルメールも同じ。「真珠の耳飾の少女」に似たポーズをしたレオナルド・ダ・ヴィンチのルーヴル美術館の「岩窟の聖母」の天使も左目と右目とがずれている。
「真珠の耳飾の少女」も「岩窟の聖母」の天使も、左右の目がずれることによって、見ているわたしに向かって視線が求心的に狭まらならないで、空間の広がりが生みだされている。

                       レオナルド・ダ・ヴィンチ 岩窟の聖母
             ルーヴル美術館

ベラスケスの「ラス・メニーナス」では、描かれている場面を見ているのは鏡の映っているフェリペ4世だ。フェリペ4世が見た場面が描かれている。視点=消失点はフェリペ4世のはずだ。
しかし、「ラス・メニーナス」の部屋の空間の線遠近法的な消失点はフェリペ4世ではない。もっと右にずらされている。消失点が二つある。「ラス・メニーナス」の空間に広がりや開放感があるのはそのためだ。

「真珠の耳飾の少女」も同じように、少女と見ているわたしとのあいだに空間の広がりが生まれている。

フェルメールの絵画は手前の暗がり、中央の光に照らしだされたシーン、奥の壁が一般的な空間のセッティングだ。「真珠の耳飾の少女」では逆になっている。奥の暗がり、中央の光に浮かぶ少女、そして、その前に立つ見ているわたし。
ひたむきな眼差し、もの言いたげな口元。少女と見ているわたしとの間の親密であると同時に近寄りがたい空間の広がりをつくりだしている。
こうした両義的な空間の広がりが、感情の揺らめきに彩られた空気感をもたらしている。
(早見 堯)

*この文は、「きらめく星座2」展(人形町ヴィジョンズで開催中の14名による展覧会、73日~721日 http://www.visions.jp/)の出品作品として、展覧会会期中、「ほぼ」毎日、更新される予定です。

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