2014年10月12日日曜日

S状曲線にみる日本の美的テイスト 渓斎英泉、菱田春草 歌川広重

菱田春草「柿に烏」1910年 絹本彩色 軸 115×50.1cm
渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」1830-40年  76×25cm ボストン美術館 

菱田春草「柿に烏」1910年

菱田春草展で「柿に烏」や「柿に猫」などを見ているうちに、ふと既視感にとらえられた。縦長の掛け軸画面型なのだが、モチーフが画面の左右の縁でカットされている。
最近、どこかで見たなあと思った。

しばらくして想いだした。ジャポニスム展で見た渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」だ。
S状に屈曲する打掛けの腰のあたりで、登る鯉と下る鯉とが交差する。登って龍になる登龍門の謂れ通り、花魁にまで登りつめた鯉する女子の気迫なのだろうか。圧倒されるほかない。
画面の縁を越えて広がるイメージと空間。当然、奥行きは抑圧される。日本の絵画の伝統的なセンスだ。縦長の画面型は効果的である。

渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」1830-40年

 クレメント・グリンバーグは、セザンヌの絵画(「りんごとナフキン」損保ジャパン日本興亜美術館)は画面の縁の内側で終わっていると書いている。しかし、ポロックについては、ポロック(デュッセルドルフのノルトラインウエストファーレン美術館の「32番」)の願望は限定された画面から自由になることだったと述べている。画面の限界である縁を壊してしまいたかったのだ。
グリーンバーグのこういう記述に触れると、ルーヴルにあるミケランジェロの瀕死の奴隷」を想いださないわけにはいかない。肉体という牢獄に閉じ込められた人間の魂が、死の間際にやっと肉体から解放されて自由になる。でも、それは束の間。その次には死にとらえられてしまう。肉体と精神の葛藤の場として人間の悲劇的な英雄性。ミケランジェロの生涯の主題だ。
ポロックがミケランジェロに重なる。

物理的な実在であるほかない絵画。モダン・アートは絵画をこう認識するようになった。そう認識すればするほど、有限な画面の縁をどう克服するか、どうやって自由になるか。モダン・アートの絵画の主要なテーマの一つだった。宇宙空間よりも広い絵画をつくることは不可能だ。だから、これは永遠のプロブレマティーク(解決不可能な難問)だと思われた。

渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」から、西欧のヘレニズムやマニエリスムでしばしば使われているフィーグラ・セルペンティナータ(蛇状体)を連想しないわけにはいかない。
フィレンツェ、シニョーリア広場の回廊にレプリカで設置されているジャンボローニヤ「サビニの女たちの略奪」はどうだろう。
ローマ男とサビニ女が上下で葛藤しながら鯉のように滝を螺旋状に登っていく。二次元平面でのS状曲線が三次元空間で螺旋状に展開されているわけだ。幹に絡みつく蔦のようでもある。だから、見ているわれわれが立っている現実の空間を巻き込む迫力は感じられなかったことを記憶している。

セルペンティナータの絵画でもっとも知られているのはパルミジアニーノの「首の長い聖母」。
S状曲線や中景を欠いた近景と遠景というめくるめく距離の短縮にもかかわらず、マリアは画面左右の中心に位置して、聖母子は画面の中におさまっている。


S状曲線が風景画で展開されると、「大かわあたけの夕立」や「両国橋」などの「江戸名所百景」で歌川広重が多用しているジグザグのZ型構図になる。Z型を刺し貫く雨が効果的だ。向こう岸の安宅では直角に交差している。


 限定された画面内の空間や中心という強迫観念から逃れられないのが西洋のセンスなのではないか。
したがって、シンメトリーを崩した場合には、古代ギリシア以来のコントラポストでバランスをとる必要があった。
今、開催中のチュリッヒ国立美術館展でモンドリアンの「赤、黄、青のコンポジション」(1930)を見たときにも、こういうことを感じた。
チュリッヒ国立美術館展に並べられている作品のなかで、モンドリアンは飛び抜けてすばらしい。ほかの絵画が、たわいもないイメージのゲームに耽っているかのようにさえ思われたほどだ。精神性の高さをあらためて実感させられた。精神性とは、いうまでもなく物質性や感覚性の反対だ。有限な「もの」、無限の「精神」ということだ。


しかし、モンドリアンの絵画の基本的なセンスはアンバランスのバランス、すなわち、コントラポストの調和だ。
対角線上に向かいあう大きな赤い面と小さな青の面。上に大きな赤い面があることに注意したい。
黒の仕切り線は赤い面と青い面との接点でだけ交わっている。左右上下の中心がはずされた交点。アンバランスになっている。
その交点を支点にして、赤と青がシーソーのように激しく揺れて傾く。ところが、このアンバランスをケアして、青に協同するのが白や黄の面だ。それらが一緒になって赤に対抗してバランスをとり直す。
空気の揺れに連動して動くことで、見えない周囲の空間を見えるようにしたモビールのコールダーに向かって、モンドリアンは「わたしの絵は動いている」と言ったことがある。それは、こうしたコントラポスト風なアンバランスのバランスによる視覚的な動きを指していた。

モンドリアンのアンバランスのバランスを批判したのは、よく知られているように、「赤、黄、青なんか怖くないシリーズでのバーネット・ニューマンだ。ニューマンは、人間中心主義的な調和のセンスを超克して、崇高性を実現するためにシンメトリーを使用した。
いずれにしても、モンドリアンにとっても、ニューマンにとっても、限定された有限な画面や中心をどう脱臼するかは主要なテーマだったことには違いはない。

渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」とか、菱田春草の「柿に烏」や「柿に猫」、見ることができなかった「黒き猫」なども、画面型や画面の縁、中心といったポジションから見直してみると、さらにいっそう興味深い。



菱田春草「柿に烏」は、秋の今頃だろうか、極端に縦長の画面の下部では、太い幹が下から右上に向かって曲線を描きながら画面の縁を越えていく。
画面上部では、画面の縁の外、右側から侵入した枝が、下の太い幹の曲線を繰り返しながら左下に向かっている。たった今、舞い降りたばかりなのだろう、黒い烏の重みで枝がしなだれている。

通常なら画面の下部の近くと、同じく、通常なら遠くである画面上部とは、正確に呼応して遠近感を退け、画面縁でのモチーフのカットと相まって、左右に広がる平面的な空間感が強調されている。日本の伝統的な下から上に面を積み上げる構図の新しいヴァージョンだ。
常ならない日常のなにげない動きの一瞬。移ろっていくものの束の間の動き。
そうした流れいく日々のとるに足りない現実の片隅での出来事が、画面の縁でカットされた柿の木や、中心をずされた構図で巧みにとらえられている。
中心という呪縛にとらわれていないばかりか、さらに、画面型をさりげなく巧妙に使いこなしている。

考えてみると、西洋の伝統的な構図のセンスであるアンバランスのバランスやシンメトリー、中心といったアイテムは、こういってよければ、フォーマル・イメージをつくりだす方法だといえる。正装スタイルだ。
ラファエルロのルーヴルにある「美しき女庭師の聖母」を想いおこせば十分。
日本の伝統的な構図のセンスである、シンメトリーの反対概念というのではないアシンメトリー、脱中心性などは、いわば、カジュアル・イメージ。西洋風にいえばスケッチのセンスに近い。
カジュアル・イメージとは日常的なセンス、正装とは反対の着流し風、現実に密着した感じ方ということでもある。

こんなことに思いをめぐらすのに示唆的な文がある。
クロード・レヴィ=ストロースの「プッサンを見ながら」だ。ジャン=ドミニク・アングルの引用をまじえて次のように書かれている。

「歴史画家は種一般を表現する」のに対して、日本人画家は存在をその一瞬の動きのなかで、その個別性のなかで捉えようとする。その点で、偶然的なもの、移ろいやすいものを追い求める。

レヴィ=ストロースのいう日本人画家は木版画家、すなわち広重や北斎などの浮世絵師を念頭においている。
「種一般」を普遍性、「個別性」を特殊性におきかえるとわかりやすい。
イタリア盛期ルネサンスを説明する簡単明瞭な一語、ラテン語のRATIOは正しい比例を意味している。プロポーションの考え方の原型だ。reasonの語源でもある。
RATIOは西洋の伝統的な文化センスに拡張して適用してもおかしくない。
RATIOの典型は、一点透視図法や黄金比だ。これほど普遍的な方式が考えられるだろうか。ル・コルビジュエのモデュロールも西洋固有の普遍的原理のバリエーションだ。

三浦雅士も同じように、西洋が普遍性を求め続けてきたと、「大航海」だっただろうか、雑誌の対談で述べていたのを記憶している。
日本の伝統的なセンスは、こうした普遍性に関心をもったことはほとんどなかったのではないだろうか。
普遍性への欲望とは、ものごとを現実から引き離して概念化したり、観念にまで抽象化してしまう意志のことだ。
感覚的なものを克服して精神的なものを求めるのが普遍性への欲望でもある。
日本型のセンスは普遍性を無視することで、生き生きとした現実の息づき、逆にいえば、その場、その時限りのエフェメラな現象をとらえることができた。
感覚的なものにとどまり続けるのだ。


渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」とか、菱田春草展で「柿に烏」や「柿に猫」、まだ展示されていなかった「黒き猫」(永青文庫)などは、画面型や画面の縁、中心について、わたしの思いをうながした。

極端に縦長の画面型や画面の縁でのカット、そして脱中心のアシンメトリーといった日本型センスは、現実を普遍化しない装置として機能している。現実を濾過して純化することなく、そのままで受け入れようとしているのだ。
クロード・レヴィ=ストロースが指摘した個別性や偶然的なもの、移ろいやすいものへの関心と表裏一体になっているのである。
河合隼雄が日本の神話や物語を例にとりながら、日本人の問題解決の流儀を「美的(感覚的)解決」だと指摘したのも、こうしたことに関わっている。
(はやみ たかし)
※ジャポニスム展(世田谷美術館、9月まで開催されていました)、菱田春草展(東京国立近代美術館、開催中)、チューリッヒ国立美術館展(国立新美術館、開催中)から取材しました。