2012年7月4日水曜日

隔たりの詩学  <きらめく星座>2



      ヨハネス・フェルメール「真珠の首飾りの少女」ベルリン国立美術館 1662-65年 
      油彩 カンヴァス 55×45cm

身につけている真珠の首飾りを窓の横の小さな鏡のなかに見ている少女。首飾りとそれを身につけている自分の姿に夢中になっているかのようだ。フェルメールは人目を気にしないでなにかに没頭している人物を取りあげることが多い。

ルノワールやアルフォンス・ミュシャの没頭している女性の官能的な恍惚感とは違っている。ルノワールやミュシャの女性の動きのあるポーズとは異なる背筋を伸ばして動きを抑えたポーズだからなのだろうか。ルノワールやミュシャに似ている荻原守衛の「女」を想いおこしておきたい。
フェルメールの少女は没頭しながらも、没頭する自分から距離をおこうとしているのである。こうした没頭と節度とが調和した雰囲気が女性の「ひたむきさ」を醸しだしている。恍惚感や官能性とはことなる「ひたむきさ」は、鏡のなかの自分を見ているという点では自分自身との「近さ」であるにもかかわらず、それとは逆に、鏡と少女との間の空間の広がりがつくりだす鏡と少女との「遠さ」との相反する二つの距離感からも生みだされている。
相反する近さと遠さ、親密感と疎遠感とが生みだす特有な隔たりの感覚。それを「隔たりの詩学」と名づけてみたい。

絵画の中のシーンと見ているわたしとの間にもこうした隔たりの感覚がある。絵画のなかの奥の壁、窓からの光に照らしだされている中央の少女やテーブルなどの私的な部屋、そして手前の暗がり。手前の暗がりは絵画を見ている「わたし」につながっている。「わたし」は手前の暗がりから少女の私的なシーンを「覗いている」感じの「近さ」でありながら、同時に通りすがりの遊歩者の気まぐれなまなざしが一瞬見ただけといった「遠さ」も感じさせる。

部屋は外光に照らしだされて感情で潤んだ夢想の空間に変貌させられている。外光は絵画を見ている「わたし」のまなざしでもある。フェルメールの絵画を見た後、わたしはなにげない光景の細部が詩的に輝き始めたことに気づかないわけにはいかなかった。
(はやみ たかし)

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