2012年7月4日水曜日

アーティスト/マジシャン-岡本太郎と高松次郎<きらめく星座>展1


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岡本太郎生誕100年展を東京国立近代美術館で見たのは5月初めだった。
会場出口付近のモニターでタモリと話している録画ビデオが放映されていた。その前に立ったとき、メディア化と情報化が進む時代にあえてそのシーンに入っていった芸術家岡本太郎、と、誰によってだか忘れてしまったが、どこかに書かれていたのを想いだしていた。メディア化と情報化される前の岡本太郎の作品や活動も多少は知ってはいた。けれどもわたしの岡本太郎像は、花田清輝との「夜の会」や二科会、アンフォルメルなどにかかわるアヴァンギャルド芸術扇動者、あるいは縄文土器論の文化イデオローグといったものだった。なによりも「重工業」と「森の掟」で日本戦後美術史にメルクマールをうちたてた画家だ。
あらためて岡本太郎に気づいたときには、1970年万博「太陽の塔」の岡本太郎としてすでにメディア化、情報化されてわたしの前にたち現れていて、いわゆる「現代美術」のシーンからはずれていた。そういえば、「青春残酷物語」の大島渚も同じタイプの芸術家として仕立てられていったようだ。
そういうわたしのなかでの岡本太郎像を一新させたのは、2007年春に世田谷美術館で開催された「世田谷時代1946-1951の岡本太郎」展だった。「戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流」と副題されていた。戦地から復員して二科会に参加、「夜の会」やアヴァンギャルド芸術研究会、「森の掟」発表、日本橋三越での個展開催、そして縄文土器再発見と続く世田谷在住時代の「岡本太郎」生成のプロセスを鮮明にする丁寧な展示だった。
今回の生誕100年展は、パリ時代のピカソへの挑戦から始まって、「きれい」や「わび」「さび」、そして自分自身への挑戦など「対決」七番勝負といったシナリオだ。ところで、この「七」とは?芸術と生活の総合化をめざす岡本太郎と生涯の親友となった芸術と革命の総合化をめざす花田清輝。岡本太郎がモース&バタイユ風始原的供儀に共感していたからといっても、花田清輝の七の供儀的な神秘を描いた小説「七」に70+10年の歳月を越えて呼応しようとしていたわけではないだろうが。
パリから帰った岡本太郎には、日本の西欧風モダニズム美術は反社会的な趣味性におぼれているし、一般的に日本人は「わび」「さび」「しぶみ」などの「封建的諦め気分」を伝統的美意識だと勘違いしているようにみえた。そしてなによりも日本のアーティストは生ぬるい「ムラ」的美術画壇で情緒的な反応に終始しているとしか思われなかった。それらに「ノン」をつきつけ、それらと対決すること。「岡本太郎」という文化現象(というものがあったとして)はここから始まった。
生誕100年展や世田谷時代展が明らかにしようとしていたのは、岡本太郎の「美の呪力」(講談社 1980年)に書かれている次のようなことばが的確に指し示している。
「われわれが現在生きている絶対感」と、過去の「象徴的事物にひそんでいる根源的な生命観とふれあうとき、なまなましい手ごたえとしてひらめき出るものがある。それを追うのだ」。
あるいは、これも同様のことを語っている。
「ものとしての絶対感は、その生命が人間精神とともにひらく瞬間にこそ生きる」。
「絶対感」は、今、ここの疑いえない実在性のことだろうか。実在のわたしが、過去の遺物に触発されてひらめき出るもの、あるいは、「もの(作品や過去の遺物)」はそれを見る者の気持ちによって実在性として甦る。こうしたポジションから岡本太郎に芸術家としてだけではない全体的な人間としての姿をとらえようとしていたのだ。ここから見て説得力のある発言をしているのは、岡本太郎をアヴァンギャルド啓蒙家として喧伝している美術関係者たちではない。文化人類学者の今福龍太やフランス文学者の酒井健だ。
わたしは岡本太郎を全体的にとりあげるようなタイプではない。「美の呪力」から最初にあげた文の「象徴的事物」や次の文の「もの」を岡本太郎の作品に当てはめて考え直してみるのがわたし自身にはふさわしいように思われる。岡本太郎の作品が、始原的な「なまなましい手ごたえ」としてわたしの「精神とともに」花開く瞬間を確認してみることだけが、ここでの目的である。
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10年間のパリ時代、1934年に描かれ54年に再制作された「空間」は、岡本太郎の最初の本格的な絵画だ。単純に見える「空間」には、以後の岡本太郎の作品にみられるほとんどすべてが兆候として現れている。
しなやかで、しかも鋭い有機的な曲線と無機的な直線という正反対のモチーフが鮮やかだ。流線形や勾玉形といえるような形を形成する「し」字状曲線と、斜傾する形態や構図となる直線とが対比的だ。前者は布状の不規則な形態、後者は棒状の直線的な形態として左右に並置されている。布状の形態は左上から右下へ向かう動きと左下から右上へ向かう動きと、相反する動きを感じさせる。棒状の形態は上部を基点にして右から左に振れているのだろうか。それとも下部を基点に左から右に振れているのか。単純なので両義的だ。
左側では平面的なかたちが不規則にカットされ、グラデーションを施され裏をみせられているだけで蠢く布状の有機的な始原的生命体に変貌する。暗い海中を泳ぐエイか、夜空に翻る旗を想起しないだろうか。
右側では幾何学的な直線が具体的な実在の棒に変貌している。左側が暗い陰になって、右側は金属質の輝きを発散させている。色むらか刷毛跡のような濃淡がつけられた背景の空間に潜んでいるわずかな光を集めて輝いているかのようだ。
布状形態も棒状形態も、どちらともとれる両義的な動きと、抽象的で幾何学的な形態と生命的だったり実在的だったりする具体的な形象との間でゆれているのである。
生誕100年展で「空間」を見たとき、わたしは自宅の近所にある武者小路実篤記念館で見たことのある一つの絵を想いおこして、いくぶん脱臼気分になってしまった。実篤の筆による南瓜と胡瓜の絵だ。「仲良き事は美しき哉」との添え書きもある。球状の南瓜と棒状の胡瓜。岡本太郎の布状生命体と棒状実在体に似ていないだろうか。
南瓜と胡瓜、布と棒は、そう思われがちなように、互いに異質なものだろうか。そうではない。位相変換としてとらえると両方ともぐるりとまわってつながっている同じ「構造」体だ。見かけは異なっていても実は同じ。太郎も実篤も同じことを考えていたのだと思う。唐突ながら、シュルレアリスムのキャッチ・コピー「手術台のミシンとこうもり傘」も実は異質どころか、尖っているところなど似すぎている。花田清輝の「月とすっぽん」を想いだしておきたい。
わたしは生誕100年展で最初に「空間」を見て、最後にまたあらためて「空間」を見直してみた。布状形態と棒状形態のヴァリエーションが岡本太郎の作品のほとんどすべてに現れていることを確信しないわけにはいかなかった。
どう見ても布状形態やそのヴァリエーションは日本の伝統的な「筆意」を通した形の生成を感じさせる。だから「し」字状曲線といってみたくなったのかもしれない。「し」字状曲線から生まれる複合された流線形や勾玉形が、当時、パリで流行していたハンス・アルプなどのバイオモーフィック・フォーム(生物学的形態)に近似しただけなのではないのか。実際、太郎は60年代以後、書道的運筆の「筆意」がもろにうかがわれる絵画や立体に向かった。北大路魯山人が弟子入りした「版下書きの名手」で町書家の岡本可亭が太郎の祖父だったことを、しかし、今、想いだすべきではない。
      ★挿図1 岡本太郎「空間」1934年1954年 川崎市岡本太郎美術館

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ここまでで確認しておきたいことが三つある。
一つは、布状形態にみられるバイオモーフィック・フォームに結晶している「筆意」の身体的アクションがわたしを画面に引きこんでいくことだ。「空間」とは違って一つの画面にいくつかのモチーフが描かれた作品の場合には、異なる多数のモチーフを連続的に貫く流れの中にわたしの身体が巻きまれていく。指摘することにいくぶん抵抗があるが、岡本太郎が再発見した縄文土器の渦巻く隆線文の効果に似ている。
詳しく知っているわけではないが、わたしは等伯の「凛涼感(凛とした涼やかさ)」や光琳の「からきり感(からり&きっぱり)」の、臨界点まで圧縮された状態で平衡を保っているかにみえる始原的生命のエネルギーを感じさせる高い緊張感が好きだ。こうした凛々しい爽快感こそが日本の伝統的美意識なのではないだろうか。
かつて見たことのある十日町市博物館にある縄文時代の国宝の土器にはあからさまでなまなましい原始的生命のエネルギーを感じる。緊張感の高さに等伯や光琳との優劣はつけがたい。これらにくらべると、永徳の大画面様式、若冲や曾我蕭白の異形性は「形象」のつくり方での高度な技巧に注目するとしても、わたしはあまり高い緊張感を味わえない。
実際、岡本太郎のことなど想いおこさないまま見た十日町市の縄文土器の無方向にエネルギーを発散している魔術的としかいいようのない隆線文の記憶が、生誕100年展の会場で岡本太郎の作品の上に知らず知らずのうちに重なり合っていた。岡本太郎の作品も十日町の火炎土器も、始原的生命力でその場の供儀にいつの間にかわたしを引きずりこんでしまう。
二つ目は、これら二つの布状と棒状の形態の「形象性」以上に、暗く塗りこめられた背景が、これらの「形象」によって平面的なのに無限の空間だと感じられるようになってしまうことだ。だからタイトルが「空間」なのだろう。ここでも形態性や形象性を越えたかたちの機能を見ることができる
もう一つは、棒状形態は「形態性」や「形象性」よりも画面を斜めに方向づける「構図」の原理になっていることだ。斜傾線状であることで、布状の形態の不規則で不安定な動きに半ば拍車をかけ、それを半ば抑制している。わかりやすくイメージしてみると、翻る旗を支えるポールとして機能しているのである。そして、そうであることで、背景を奥行きのある空間として現れださせている。
もしそうなら、これは目に見える「構図」の原理というよりも、むしろ、形態と背景を形象や空間にまとめあげる目に見えない「統辞」的な役割を果たしているといった方が正確ではないだろうか。ポールに支えられた旗は、風の向きや強さに応じてはためき方や翻り方を変化させる。逆にはためき方や翻り方の違いで風向きや風力を、もしこういってよければ、空間をわかるようにさせている。風向きや風力と旗との関係、すなわち空間を「統辞」的に制御しているのである。文でいえば形態や形象に該当する単語をまとめる文法がここでの金属質に輝くポールだといってみたい。けれども、それが文法、つまり「統辞」として機能するときポールは見えなくなる。
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この三点を確認した上で「空間」をもう一度見直してみよう。
右上から左下に向かう「統辞」的な斜傾線を軸にしてそれに反発したり貫入したりする「筆意」から生まれてくる形象の氾濫。以後の岡本太郎のほとんどすべての絵画の基本だ。「空間」からわたしに確実に見えてきたのは、岡本太郎の絵画を岡本太郎の絵画にさせている形態を形象に変貌させる始原的な力の「筆意」と、ダイナミックな動きをもたらしながら氾濫し散乱する形象をまとめあげる「斜傾線状の統辞法」だ。そうでなければバラバラに砕けてしまう無数の星を束ねる星雲か、多数多様に飛散しようとする莫大な数の水滴を秩序づける台風の雲の運動を思わせないだろうか。あるいは、いくつかのことばで構成されている文に意味を与える「文脈」的な機能だといっていいのかもしれない。
「空間」を時計方向に90度回転させると、シュルレアリスムのイデオローグ、アンドレ・ブルトンをも魅惑した「傷ましき腕」(1936年/1949年再制作)に位相変換される。あるいは、「空間」の布状形態を右側に横滑りさせて棒状形態に重ね合わせると「傷ましき腕」になるといった方が正確だろうか。わたしには、「空間」は、「傷ましき腕」以外にも秀作の誉れ高い「重工業」(1949年)や「森の掟」(1950年)、それを展開した「燃える人」(1955年)、そして巨大な「明日の神話」(1968年)など岡本太郎の大半の作品に二重写しになって見えてくる。
    ★挿図2 岡本太郎「傷ましき腕」1936年/1949年再制作 川崎市岡本太郎美術館

「傷ましき腕」で60度の角度で連結されている右上から左下方向の上腕と逆方向の下腕との斜傾性は、同じような統辞的仕組みで「重工業」でも機能している。連なる三角錐のモチーフと長ネギに60度の角度で連結された閃光がそれだ。同時に、「重工業」での赤い歯車と黄色から赤に変わる閃光は、「傷ましき腕」のリボンだ。リボンの周囲を縁取る明るい青色は、「重工業」では歯車の周囲の青い気流とそこに巻き込まれる人といったところだろうか。「重工業」でのいかにも唐突な長ネギは「傷ましき腕」では腕にからみつく紐でもある。共に妙になまめかしく動いている。「重工業」の斜傾状につらなる長ネギと三角錐、そしてそれから横にずれてたわんだ工場のような建物が、「空間」の棒状形態(ポール)と同じように機能して絵画を統辞的にまとめながら文脈的に意味を与えているのである。
「傷ましき腕」が再制作された49年に制作されたのが「重工業」だということは特別問題にする必要はない。49年に描かれた赤色の兎と黄色の肉々しく始原的な有機物を暗い青色の背景に並置した「赤い兎」は「傷ましき腕」を飛び越して54年再制作の「空間」につながっているのは明瞭だ。47年の「憂愁」や「電撃」「夜」、48年の「夜明け」「真昼の顔」「作家」などの49年以前の絵画も「筆意」と「斜傾線状の統辞法」で彩られている。再制作されなかったとしても、「傷ましき腕」や「重工業」は最初の絵画「空間」から始まる「筆意」と「斜傾線状の統辞法」を共有しているのである。
「重工業」や「森の掟」を当時の河原温や池田龍雄などのルポルタージュ絵画と関係づけてとらえることはできるだろう。歴史的な意味はあるかもしれないが、わたしにはあまり生産的だとは思えない。というよりも、ルポルタージュ絵画そのものをもう一度見直してみるべきだろう。


         ★挿図3 岡本太郎「重工業」1949年 川崎市岡本太郎美術館

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岡本太郎の作品を始原的な力の「筆意」と形象をまとめあげる「斜傾線状の統辞法」のポジションから述べていくことはいくらでも可能だ。けれども、岡本太郎を考えながら、もう一つ、先ほどから気になっていることがある。「空間」で登場する布状形態、わたしがそれを翻る旗とか泳ぐエイとたとえてみたときからひっかかっていた。
わたしにもっとも「現代美術」的な刷りこみのイニシーションとなっているのは高松次郎だ。1965年、東京、電通通りのビルの地下にあった、いとう画廊で展示されたシェル美術賞展の高松次郎の「影」は篠原有司男のイミテーションアートとならんで、たとえ勘違いだとしても、初めてわかったと思えた「現代美術」の一つだった。
その高松次郎が1984年の「水仙月の4日 空に舞う雪の化生たち」以後描いた絵画に登場するエイのようなかたちが、岡本太郎を今、ここで考えている間中、わたしの気持ちの片隅で明滅を繰り返していた。いったい、これはどうしてなのだろう。
高松次郎が1993年に描いた「形/原始 N0.1360」や「形/原始 N0.1362」などを、あらためて図録で見てみると、岡本太郎「空間」のエイが体勢を変えたか、あるいは風向きと風力の変化で翻り方を変えた旗か、どちらかに違いないと思わざるをえない。
          ★挿図4 高松次郎「形/原始 N0.1360」1963年

身体のアクションによるドゥローイングが痕跡として紡ぎだした始原的なかたち。それが高松次郎のエイだ。高松次郎のエイは横の軸線は画面の上下の枠に対して右下がりに斜傾し、縦軸は右上から左下に向かう斜傾性になっている。このエイのなかに岡本太郎の「空間」のポールが斜傾したクロスとなって潜んでいるのでは、と、わたしは思う。
このことの検証する前に高松次郎の「影」よりももっと明快な版画「日本語の文字」(1970年)を見てみよう。
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「日本語の文字」は、わたしの勝手な推測だが、タイプライターで打ち込んだ文字をオフセットで印刷したのだろう。2年後のアルファベット文字を組み合わせて繰り返した「THE STORY」ではゼロックスコピーが使われている。「日本語の文字」でもオフセットで印刷する前に拡大コピーのプロセスがあったに違いない。
オフセットといっても、いわゆる当時の軽オフセット(?)だからなのか、あるいは印刷する前に何度も拡大コピーを繰り返したせいなのか、文字の輪郭がかすれて不規則になっている。紙のいたるところにインクの染みもある。じっくり見たのは3年前の「わたしいまめまいしたわ」展(東京国立近代美術館)だ。
インクの染みは視覚的な芸術性、いいかえると視覚的アクセントだとだれかがいっていたような気がする。わたしにはそうは思われない。むしろ、「この七つの文字」という印刷文字が指示する「この七つの文字」という意味内容を脱臼させ、空虚にさせている原因のように思われる。
「この七つの文字」だけに注目し「ことば」や「文」などの記号として理解すると、印刷文字「この七つの文字」は意味内容「この七つの文字」を指し示している自己言及、あるいは類語反復(トートロジー)だということになる。これは哲学や文学系の人が得意とするところだ。
「指し示すものと指し示されるものが同一であることによって生じる循環が、人に、合わせ鏡の無限廊下に立ったときのような目眩を覚えさせる」(三浦雅士「高松次郎の現在」展図録、1996年)。
なるほど。でも、わたしはそう思わない。「ことば」や「文」の意味は文脈の効果にしかすぎないことを忘れてはならない。「日本語の文字」は版画であり、美術という文脈でプレゼンテーションされている。哲学的アフォリズムでもなければ、文学的な言語表現でもない。白紙にただ「この七つの文字」が置かれているだけではないからだ。印刷されたインクの痕跡による文字なのである。インクの物質性が透明になって、ことばという記号的側面だけが見えてくるわけではない。
文字の輪郭のかすれや不規則なぎざぎざ、多分、繰り返されるコピーのプロセスを経たので小さな汚れが徐々に鮮明になった染み(1970年前後によくみられた手法ではあるが)などの視覚にさしだされているもの。こうした印刷のインクの痕跡、それらの造形とはいえない反色彩と反形態こそがこの版画作品で注目すべきところだ。
そこに注目すると、インクの痕跡は痕跡がつけられている支持体の紙とともに、わたしの眼前に迫りだしてくる。すると「この七つの文字」の意味は脱臼され空虚になりながら遠のいていく。次の瞬間には意味が近づき痕跡と紙が遠のく。「目眩」を覚えるのはこの二つの作用の短縮遠近法的繰り返しが原因なのだ。意味と痕跡、もしこういってよければ記号性と物質性や物体性とのズームレンズのようなシーソーゲーム。
シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)といった記号的関係の問題を脱臼させ、そこからずれていくところが「日本語の文字」のきわだった特徴だ。いたって形而下学的なのである。「影の形而上学」とか「実在と不在」などと、ともすれば視覚を越えて形而上学的に問題を展開しているかにみえる高松次郎は、逆に物質的で感覚的な視覚的事項を丁寧に取りあげなおしていたのだった。


★挿図5 高松次郎「日本語の文字」1970年 東京国立近代美術館

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夏目漱石の小説「坊ちゃん」で文字のインクの濃度やかすれ、染みに注目していてはマドンナの美貌は想像できない。小説で文字の視覚的な物質性に着目したのはル・クレジオが思い浮ぶ。小説は文字のインクの痕跡という物質、いわば支持体を透明にして、支持体に表面として重なり合っていることばを記号として読んでいくものだ。だから、書棚に並んでいるすべての「坊ちゃん」は複数あってもすべて本物なのである。
「日本語の文字」は印刷された版画であることで、唯一無二の描かれた絵画とは違って、小説と同じような複数あっても本物、したがって、記号として「読む」ものだと勘違いしやすいようにされている。高松次郎らしいシニカルな落とし穴だ。だから、紙に七つの記号としての文字が置かれているだけだと早とちりしてしまうのだろう。画集などの複製でみるととりわけそう見えるのかもしれない(それにしても花田清輝の亡霊「七」が現れているはずはないだろうが)。
唯一無二の「もの」として「見る」作品である「日本語の文字」は、印刷されていることで透明な記号である「文」として「読む」作品であるかのように装われている。けれども、見ればわかるように、繰り返されたコピー(印刷)のプロセスで非物質的な記号性を徐々に剥ぎとられて不透明で物質的なインクの痕跡性が強調されている。痕跡性はそれらを支えている支持体の紙も不透明な物体として気づかせる。文の意味とインクの物質性や紙の物体性、記号と物質や物体との短縮遠近法のようなズーム効果が「見る」ことのシーソーゲームなのである。
高松次郎の作品を見ていると、こうした「見る」ことのシーソーゲームに目眩しながら自分の意識や考えを革新していくのが美術作品を見るという経験なのだとあらためて実感することを迫られる。
「この七つの文字」から、1980年初め、銀座の鎌倉画廊で見たジョセフ・コスースのネオン管による「five words in five colors」をわたしは想いおこす。当然のことだ。五色の色光が五つのことばになっている。異なるメディアである紙に五色で書いても同じだ。「もの」をベースにした表現しているメディア、すなわち感覚できるもの、見えているものは違っていても「わかる」ことは同じ。「わかる」ということは物質的で感覚的な表現メディアの差異、あるいは視覚的なルックスとか見たくれには左右されない。
美術史では視覚的なルックスのテーストを「様式」として語ってきた。モダニズムの美術はその延長線上で視覚性にこだわってきた。コスースのコンセプチュアル・アートはそれを脱臼=転位させたのである。モダニズム美術の核心部に侵入して内側からモダニズム美術を脱構築したといってもいいかもしれない。
高松次郎はそうではない。コンセプチュアル・アートのような見たくれを装いながら、視覚をもう一度問い直している。これ以前の「影」や「遠近法」、「単体」のシリーズでもこの姿勢はかわらない。あるいはさらに、これらのシリーズでのテーマは同一だとみなすことができる。「日本語の文字」はコスースのコンセプチュアル・アートのように「わかる」ことを問題にするために、「見えている」視覚的内容のテーストを名ばかりのもにしてはいないのだということは強調しておきたい。
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「影」の作品も同じように経験することができる。東京都現代美術館の「扉の影」(1968年)は観音開きの二つの扉が、一つは半開き状態、もう一つは開いてしまった状態で影が描かれている。開かれた二つの扉の向こうは空いているのが常識だが、不思議なことに、そこには開く以前の扉に扉を開く身振りをしている人物二人が描かれている。しかも、開かれていない扉の影とすでに開かれている扉の影とは左側の扉では連続している。ルネ・マグリット風トリッキーといわれたのはこうした仕掛けが原因なのだろう。そういう作品を、多くの論者が指摘したようなトリックだとか、トリッキーだかとはわたしは思わない。美術作品、特に絵画の始原的な魔術性、いいかえると美術作品が成立する条件を明らかにするマジックだといっておきたい。そして、美術作品が成立する条件を明らかにするマジックを武器にして美術作品としての表現を獲得しようとしたのだ。


           ★挿図6 高松次郎「扉の影」1968年 東京都現代美術館

左側の二つの影と右側の二つの影。版画「日本語の文字」と同じで、影の元になっている人物はどうなっているのだろうか、と考える必要はない。影は光と物体との関数だ。影は光のアクションによってそれが投影(描写)されている扉という支持体の物体性をきわだたせる。そうすると影は萎えて遠ざかる。アポリネールの分析的キュビスム解説小説のなかでのオノレ・シュブラック氏が失踪した壁のようにわたしの眼前に扉が立っている。
描かれた影だから絵画だという前提で、絵画でのカンヴァスにあたる扉を透明な支持体だと考えるる一方で、同時に扉を実在の物体だとも考えると、四つの影がトリッキーな「不在と実在」の「現象学」のように見えてくるのかもしれない。イリュージョンの場としての絵画と物体としての扉、そこにある影とは・・・?謎はマグリット風に深まっていくばかりかも。
こうしたことがもっと明快にわかるのは、壁の帽子掛けのようなL字型ビスがとりつけられてそこに吊り下げられている鍵の影だけが描かれた絵画「影(鍵)」(1966年)だ。ここでは、元のオリジナルの鍵はビスにはぶら下がっていない。影は光と元の物との関数なので、物と光と支持体の壁との関係で決定される。だから元の物、すなわち鍵などを問題にするまでもなく、描かれたにすぎない鍵の影を受け留める壁こそが光と共に現前してくる。
影絵遊びで手が狐の形象になっていたことを想いおこしておけば、高松次郎の「影」の元の対象が不在だとか、どこにいるのかなどを問題にする必要がないことが理解されるだろう。「影」にジャスパー・ジョーンズの「旗」やロバート・ラウシェンバーグの「ベッド」との共通性を検討してみれば、「影」を「もの」と絵画、支持体と表面、そしてそれの淵源にある「地」と「図」の関係という現代絵画の最初の問題設定にまで遡ることができる。
描かれた影の表面とそれを成り立たせる支持体の扉や壁。ここでは、影という記号と支持体としての物体との目眩するようなシーソーゲームがわたしに視覚的な物体=「絵画」について考えさせる。
高松次郎は影を描いているというよりも、影を通して逆説的に影を影にしている扉や壁を描いている、あるいは扉や壁を支持体の物体として提示し直しているといえるだろう。影という「表面」と扉や壁という「支持体」との分離と融合。描かれた表面とそれを支える描かれるべき表面。絵画ではこの二つは決して一つにはならないとして、それらを一つにするために、すなわちイリュージョンを消滅させるために三次元の箱に向かったのが60年代のドナルド・ジャッドだったということに気づいておくのは重要なことだ。
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高松次郎は不確かながら、そしてかたちをかえて、「影」以降、表面と支持体とが織りなす絵画の始原的な場に降り立っていったのではないのか。そこを問題にしなくては高松次郎を取りあげる意義はないのではないだろうか。表面と支持体をめぐって「影」の絵画から始まって、遠近法シリーズや単体シリーズ、複合体シリーズが展開されたのだ。
ここで取りあげている「影」の作品では表面と支持体を問題と同時に、それを問題にする過程で次のような事態が派生している。扉や壁は光というアクションが生みうした影を受けとめ、それをまとめる「統辞的」仕組みとして機能している。これが「影」の作品でもう一つわたしに興味深いことがらだ。そして、この「統辞的」仕組みは「水仙月の4日 空に舞う雪の化生たち」以後の絵画にも同じように機能している。
「水仙月の4日」では根源的な描く身振りといってもいいようなアクションで描かれた線の痕跡のなかから形象性を帯びたかたちが登場している。「影」の作品で光のアクションが影をつくりだしているのと同じだ。ここでは高松次郎の描く身体のアクションが光なのだ。光を受けとめた画面は描かれたかたちを平面として統辞して形態や形象に変貌させていく。
けれども、平面の統辞的仕組みから誕生したかたちは、徐々に平面から分離していったのが1993年の「形/原始」だ。「形/原始」での画面いっぱいにひろがるエイの形象のようなかたちは、画面という支持体から遊離しながら見えない斜傾するクロスに統辞されて、ゆれながら画面につなぎ直されている。
高松次郎の根源的な描く身振りは岡本太郎の「筆意」に匹敵している。高松次郎の「形/原始」の場合には、根源的な描く身振りで生みだされた始原的生命体のかたちを見えない斜傾したクロスが統辞的に画面に繋げ、まとめて、背景との関係で不穏な死の気配をたずさえた供儀的な生命的衝動という文脈的な意味を醸しだしているのである。
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岡本太郎と高松次郎。わたしの現代日本美術史を貫くいくつかの重要なポイントのなかでも特に目立つ二人だ。とりわけ高松次郎に関しては、「現代美術」イニシエーションのトラウマとか「美の呪力」からわたし自身が自由になっているとは思われない。けれども、それが、岡本太郎風にいえば、「われわれが現在生きている絶対感」だと思う。
パリの躍動する芸術と思想のさなかで育まれた岡本太郎。和風化されたアメリカ現代美術とモダニズム美術観のなかで育った高松次郎。二回りほど年齢が違うとはいえ、二人のマジシャン=アーティストは戦後復興期から高度経済成長、消費社会にいたりそれを越えて連続している情報技術革命期の「日本」で生きて戦いつづけた。
そして、二人は、「もの」と「筆意」や描くアクション、そして近似した統辞性などを武器にして驚くほど始原的な美的世界を魔術的に出現させている。そこに共感したい。
高階秀爾は「日本近代美術史論」のなかで、青木繁はイギリス19世紀の世紀末のロマン的雰囲気を、そうするには悪い場所、日本で実践しようとしたと指摘している。岡本太郎や高松次郎もそうだろうか。いや、二人は、芸術の実践のシーンで、逆に、それを展開する日本を悪い場所だと措定したときに初めて自分の芸術の方向が見えてきたのだし、戦う目標が定まったのではないかと思う。
最後に、「ネオテニー」展のコレクターのことばにならって近代日本の和魂洋才の「洋食」メニューで二人を考えてみたい。岡本太郎は激辛カツカレーライス、高松次郎はプレーンオムライスのような気がなんとなくする。共に瑞穂の国、日本の象徴的食品「ライス」が支持体になっている。ライス(rice)は民族や競争(race)とダブる(?)。不思議ではない、か。
(はやみ たかし)

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