2021年9月18日土曜日

「あゆのかぜいたしくあゆはしるー見えないものに触れる時」展 テキスト概要

 「あゆのかぜいたしくあゆはしるー見えないものに触れる時」展 テキスト概要 

ピーター・マクミランの「星の林に」(朝日新聞朝刊掲載)はいつも興味深い。

202092日は芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」。前書きに「明石夜泊」と記されているとか。

明石の蛸壺の蛸の運命と短い夏の夜の月を重ね、壇ノ浦で滅亡した平家のなかで生き残った建礼門院が明石で見た夢などを想起しながら、諸行無常に溜め息をもらす芭蕉、とマクミランは解釈。河合隼雄の「美的解決」や「詠嘆の美学」を思いだす。

 

平家滅亡にいたる契機の一つが、木曽義仲が越中富山小矢部市の倶利伽羅峠で平家を敗走させた戦いだった。

万葉歌人大伴家持が国司として五年間赴任し多くの歌をつくった高岡市も近い。

 

メルヘン建築と田圃の中に一国一城の主人のように住まいを構える「散居」も印象深い小矢部市のアートハウスおやべで、大伴家持の歌のことばを合成した「あゆのかぜいたしくあゆはしるー見えないものに触れる時」という長いタイトルの展覧会を企画した。

わたしは、江藤玲奈、本橋大介、大城夏紀の作家を選定し、展覧会名を決めるなどの企画の手伝井をした。

「あゆのかぜ・・・」展も、芭蕉の「蛸壺・・・」のように、意味やイメージの重なりとずれ、想像力や連想力をよびおこすレトリックというようなことを考えた企画だ。

 

江藤玲奈は、「物語」のシリーズ、「動き」のシリーズ。絵具の痕跡などの物が動いて命が輝く生き物の誕生のような場面を出現させる。


江藤玲奈「物語」シリーズ

江藤玲奈「物語」シリーズ

江藤玲奈「動き」シリーズ

本橋大介は、「版」と「画」の照応によって見る者を鏡の国のアリス状態にする。

                    本橋大介


                    本橋大介


                    本橋大介

大城夏紀の、床に散在する作品は「布勢の水海」、壁にたてかけられているのは大伴家持の「春愁」の三歌、最後の2点組の壁&床作品は「子規庵」がそれぞれモチーフ。記憶と想像が重なりあう万華鏡的異郷の光景。

いまは失われた富山県氷見市一帯にあって家持が遊んだ「布勢の水海」については作家のコメントがある。

http://oshironatsuki.com/works/garden_2020_oyabe.html


大城夏紀「布勢の水海」 大伴家持「春愁」三歌

                 大城夏紀「布勢の水海」


                大城夏紀「子規庵」

 

「あゆのかぜいたしくあゆはしるー見えないものに触れる時」

 アートハウスおやべ 2020.8.299.27

富山駅から「あいの風とやま鉄道」で石動(いするぎ)駅下車、南口から車で4分。

◉「あいの風とやま鉄道」の「東」を意味する「あい」は万葉集の家持の歌では「あゆ」と発音されていた富山地域の方言です。

Facebook「あゆのかぜ展 マクミランの芭蕉と 2020096日」投稿をもとにしています。

2021年9月12日日曜日

循環する眼差し−2 ことばの周りを歩き回る

「游魚」NO.8/2020に掲載した全文です。早見 堯


  一 失われたことばを求めて

 前号の「循環する眼差し」の冒頭で次のように述べた。

「ここのところ、美術作品を見るときに、記憶や連想、あるいは絵画間の相互交通などを旨とする「循環する眼差し」ということばを拠りどころにして考えることに興味をもつようになっている。わたしが回顧的になっているからかもしれない」。

 こうした興味は現在もかわっていない。これを本来の目的である絵画での「表面/支持体」の思考として展開したいということも同じだ。

 実は、わたしが長年関心をもってきたことがら、こういってよければ、そこから離れられない強迫観念というと過剰かもしれないが、「表面/支持体」のほかにもう一つある。「美術手帖」一九六四年の四月号から七月号誌上で東野芳明と宮川淳によって展開された「ポップ・アート&反芸術論争」だ。後者は大学にはいって初めて目にした「現代美術」が「反芸術」の現場、すなわち、篠原有司男などのネオダダ・オルガナイザーズのオフミューゼアム展だったこともあり、それと一緒になって、論争もなんだかわからないけど気をそそられるといった趣で、長年、正確にわかったという実感が希薄だから、後を引きずってきた。これまでも節目節目に読み返してきた。ほぼ四〇年後におおむね理解できるようになった。さらにくわえて、ステイホームを機会にあらたに読み直した。

 今回は、はじめに「表面/支持体」、次に「ポップ・アート&反芸術論争」についてわたし自身の記憶と連想をたどり、これら二つに関連した「見ることにおける身体性」、そして、「見ることにおける身体性」につなげて「表面/支持体」のポジションから作品をとりあげてみたい。「表面/支持体」も「ポップ・アート&反芸術論争」も、旧聞に属することがらだと思われている。掘り尽くされた鉱山にあえて潜入して、残されているかもしれないレア・メタルを掘りだそうとする遅れてきた発掘者のように、レア・シンキングとしてのことばや思考を再発見できればと思う。そういうわけで、今回は、作品を循環する前に、廃鉱発掘人のように、ことばを発掘して思考を循環させることになる。砂の穴のなかで穴を掘る作業や、堂々巡りの眼差しなどに陥らないで、あらたな展望が開けることを期待したい。

  二 モンドリアン「ニューヨーク・シティ」をめぐって

 わたしのざっくりしたモダニズム絵画の理解では、二十世紀の前半は「図/地」が、後半は「表面/支持体」が、それぞれキー・タームだった。「図/地」は、「表面/支持体」では「表面」に含まれる。「図/地」も「表面/支持体」も、二つのことがらを一つにするか、あるいは二つの関係を変化させることで表現を生みだすというところがポイントになる。この「表面/支持体」を絵画だけではなくほかの美術作品にも適用してみるとどうなるのかということに関心をもっている。現在でも可能性のあるキー・タームだと思う。掘り起こして磨けばもう一つ別な展望が開けると予想している。

 そのときに避けて通ることができない問題がもう一つある。絵画の正面性、すなわち、絵画は絵画の前のどの位置から見ても基本的に同じ見え方をするという暗黙の約束事だ。絵画の正面性は次のようなこと考えてみるとわかりやすい。写真の場合、写真に撮られる人がカメラを見た状態で写されると、その写真を見る人が、写真の前のどの位置から見ようとカメラを見た状態で写された人と目があう。これは平面における正面性と深い関わりがある。逆に、現実の場面で人と人が目と目があっている時には、それ以外の人とは目があわない。こちらは立体の場合に適用される。平面と立体の違いを考える場合、ここが出発点だ。

 したがって、こうした絵画の正面性は、絵画ばかりではなくテレビや映画などの平面画像の媒体のどれにでも適用できる。抽象絵画にもこの正面性をスライドさせて適用できる。というよりも、抽象絵画は絵画の正面性をもとにして平面性を実現したのである。

 したがって、正面性に関わる絵画の平面性は観点をかえて次のようにいうこともできるだろう。絵画の平面性は、絵画の支持体に厚みがあっても、支持体の厚みを考慮しない厚みのない表面(「厚みのない表面」は宮川淳の文で初めて知った)「として」理解されている。けれども、ある時期から、正面性と結びついた厚みのない表面は問い直されるようになったのだと思う。

 正面性や「厚みのない表面/厚みのある表面」、「表面/支持体」といったことがらへの関心が読みとれる作品をつくっているのは、いま、想いだせるかぎりでも次のような作家がいる。昨年、東京都現代美術館リニューアルのコレクション展で展示されていた作家のなかでは、末永史尚や五月女哲平、今井俊介、小林正人、豊嶋康子、手塚愛子、コレクション展ではないが、キャリアのある井川惺亮や市川和英、前田一澄、平田星司、小鶴幸一、藤井博、そして若い作家では本橋大介や大城夏紀など、作家自身が自覚しているかどうかを問わなければ、そのほか、探せばたくさんいると思う。ひるがえって考えてみると、一九七〇年代後半から一九八〇年代前半にかけての作品では読みとりやすい。

 話がそれてしまった。さきほどの正面性と結びついた厚みのない表面、これは正面性とかかわった「表面/支持体」の問題と同じことなのだが、それが問題にされるようになったある時期とはいつなのか。モンドリアンの「ニューヨーク・シティ」がつくられていたころだ。ジョセフ・マシェックの評論「ニューヨークのモンドリアン」には、わたしの読解では、「図/地」から「表面/支持体」への展開が述べられている。初めて読んだのは、一九八〇年十一、十二月号の「美術手帖」に掲載された梅田一穂による翻訳だった。

 モンドリアンがニューヨークに来た翌年の一九四一年から、亡くなる一九四四年までにつくった「ニューヨーク・シティ」の絵画が何点か残されている。完成作とみなされている油彩の「ニューヨーク・シティ1」と、線をテープでつくった「ニューヨーク・シティⅡ」(1)や「ニューヨーク・シティⅢ」などを比較しながらマシェックが書いている。「ニューヨーク・シティ」の連作はほかにⅣやⅤもあったようだし、「ニューヨーク・シティ」というタイトルの絵画もある。


           (1)ピート・モンドリアン「ニューヨーク・シティⅡ」


 マシェックはテープを使った「ニューヨーク・シティ」では、キャンバスに組みあわされた格子状のテープとキャンバスの織り目が似ていることに驚き、テープの幅が支持体のキャンバスの厚みと同じだということに注目している。これらの二つの指摘は重要だ。ここから、マシェックは、従来、描かれた絵画の表面の下に隠されていた透明なキャンバスの織り目と、描かれた表面を支える役割だけを担っていた裏方である枠の厚みの物理的な形態を、モンドリアンが不透明な絵画の要素として見いだした瞬間をエウレカ的に物語っている。黒の線は枠の厚みと呼応することで、線というよりも枠と同じ物質として振る舞っている。その結果、物質としての黒の線は、ほかの色彩の線も物質として機能させている。垂直と水平で構成されている線は、キャンバスを支える枠や布の織り目と同じような物質として扱われている。キャンバス上の色や形、線などによって生みだされている表面の空間が、キャンバスと枠で成りたっている支持体と同じ物質としてのリアルな空間だと認識されたのである。このとき、絵画は、「図/地」の問題ではなくて、「表面/支持体」の問題へと移行したのだ。

 ところで、「キャンバスの織り目」で想いだされるのは、マイケル・フリードがモーリス・ルイスの作品集で書いていたことばだ。フリードは、ルイスのアクリル絵具をキャンバスに染みこませながら描くステイン技法による絵画では、アクリル絵具は、油絵具のようにキャンバスの織り目の上に乗っているのではなくて、毛細管現象で染みこむ水のように糸の織り目の奥に染みこんでいると述べていた。色彩がキャンバスの表面よりも奥にある。わたしたちは、キャンバスの織り目の表面を見ると同時に色彩を見ることになるのだが、キャンバスの織り目が色彩を上から押さえつけているのか、それとも上から支えて引きあげようとしているのか、どちらなのか。どちらだろうとキャンバスの織り目が色彩に対抗していることにかわりはない。画面の表面は物質と色彩の戦場になった。

  三 キャンバスの織り目と枠から「平面体」へ

 ルイスと同じワシントンのカラー・フィールド・ペインティングのケネス・ノーランドは、後に、その時期、つまり、一九六〇年代を回顧して、そのころは画面の表面をいかに薄くするかということが最重要課題だったと述べたことがある。先ほどの厚みのない表面は比喩的な表現だが、ノーランドにとっては実際上の課題になっていたのだ。そして、そうした薄い表面が臨界点に達すると、フリードが指摘したルイスの絵画のように、キャンバスの織り目という物理的な支持体の表面が色彩よりも手前に現れる。

 表面の織り目と並ぶもう一つの枠について、ノーランドの、特に「シェブロン」(紋章での逆V字型の図)絵画を例にとりながらフリードは、描かれた表面がキャンバスの形と緊密にむすびついていて、枠が絵画の要素になっていると指摘した。あまり評判がよくなかった還元的構造だ。表面の逆V字型のイメージと矩形の画面型(枠)が構造的に一体化されている状態だ。シェイプト・キャンバスの内在化といいかえることができる。

 この毛細管現象の織り目とシェイプト・キャンバスの内在化としての枠。表面と枠から形成されている支持体の物理的な状態が前面にでてきて、色と形による空間的なイリュージョンが後退した状態でもある。東京国立近代美術館のコレクション、ルイスの「No End(2)で確認しておきたい。しかし、以後の絵画の動向は、後で述べるように、むしろ、ルイスやノーランドにみられるような絵画の臨界点から出発しているとみなすことができる。


               (2)モーリス・ルイスの「No End


 フリードによるルイスの絵画での毛細管現象の表面やノーランドの絵画の要素としての枠は、まるで、マシェックによるモンドリアンが絵画として発見したキャンバスの織り目や枠を展開させたかのようではないだろうか。マシェックが物語った「ニューヨーク・シティ」の連作でモンドリアンが発見したキャンバスの織り目と枠は、ルイスとノーランドによって発見され直され、絵画の臨界点、いいかえれば、イリュージョンとしての空間が成り立たない地点にまでつきつめられたと主張することができる。

 わたしがマシェックの「ニューヨークのモンドリアン」を読んだ一九八〇年、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催された「プラナー・ディメンション一九一二〜一九三二 表面から空間へ」展(一九八〇年三月から九月)を紹介する文を書いたことがある。わたしは図録でしか見ていない。マージット・ローウェルが書いた「プラナー・ディメンション」展のテキストによると、デイヴィッド・スミスを導入部分にして、ピカソのコンストラクションから始まる面の組みあわせによる彫刻からロシア構成主義、ポーランドのユニスムなどがとりあげられている。絵画が現実の空間とかかわることで台頭した、塊ではなくて面による立体あるいはレリーフ状の作品が「プラナー・ディメンション」という観点から組織された展覧会だった。

 わたしは「プラナー・ディメンション」を「平面体」と訳した。すでにどこかでつかわれていたかどうかは詳らかではない。平面から立体へ、絵画から現実空間へ向かうということから、平面+立体といったニュアンスで「平面体」と造語した。この訳語はいまでも気にいっている。

 ここでは、ロシア・アヴァンギャルドで重要な問題になっていた「ファクトゥーラとテクトーニカ」や、それに関連したタトリンの「リアルな空間にリアルな物質」などもとりあげられていた。わたしがとりわけ興味深かったのは、ポーランドのカタリジナ・コブロの平面から立体が立ち上がるかのような折りたたみ式風な「平面体」だったことを記憶している。「平面体」は、当然、「表面/支持体」の問題につながっている。それらいくつかのことが契機になって、一九八〇年に「壁から離れる絵画」というタイトルで評論を書いた。

 いま、こうしてふりかえってみると、マシェックによるモンドリアンのキャンバスの織り目と枠、フリードがルイスとノーランドから摘出した毛細管現象の織り目や還元的構造の枠、ローウェルの平面体、そして、「壁から離れる絵画」などの一九八〇年のわたしの個人的でしかない関心は、どれもが木霊のように照応しあいながら、正面性とかかわった「表面/支持体」が隠れたテーマとなっていて、わたしだけの問題をこえて日本と世界の美術の動向に照応していたのだろうと思う。実際、これも図録で見ただけで何もしらないにひとしいが、一九七八年から一九七九年にかけて、バークレイ大学美術館では「支持体としての空間」というタイトルで、ダニエル・ビュランやカール・アンドレなど四名の作家の個展が順次開催されていた。日本で絵画を「平面」と呼ぶようになったのはこのころからだ。空間的イリュージョンが後退して物理的な絵画の平面がより意識されるようになっていたのである。

  四 壁から離れる絵画

 こうした動向はほかにもあった。フランク・ステラは一九六〇年代の描かれた表面のかたちと支持体のかたちが同じになっているシェイプト・キャンバスから展開して一九八〇年代には壁から飛び出す「平面体」の作品をつくっていた。「支持体としての空間」のバリエーションだ。

 わたしがしばしば引用してきたドナルド・ジャッドへのインタビュー記事がある。もう一度、読み返してみよう。レアものが見つかるかもしれない。ジャッドは、一九七一年六月の「アート・フォーラム」誌上で、ジョン・コプランのインタビューに答えて次のように述べている。

 絵画には少なくとも二つのものがあることが問題だ。「矩形それ自体と矩形のなかのもの(イメージ)」。これはニューマンの絵画でさえ見られると続けて述べている。「矩形それ自体と矩形のなかのもの(イメージ)」が分離しているということが問題だといっている。これはインタビュアーのコプランの、ジャッドが排除しようとしている「空間的な戯れ」とは「図/地の関係」のことなのかという問いに対して答えたものだ。「空間的な戯れ」とは空間的イリュージョンを意味している。だから「矩形」を「図/地」の「地」だと解釈するべきかもしれない。違うと思う。

 さらに続けてジャッドはコプランにいう。あなたはニューマンの絵画の「周りを歩き回ることができますか」。この発言から考えると、「矩形それ自体と矩形のなかのもの(イメージ)」は「図/地」ではない。(画面の)矩形、すなわち支持体と、そのなかに描かれたもの(イメージ)、つまり、支持体と表面だと考えたい。

 ジャッドが触れているわけではないが、先ほどのモンドリアンを引きあいにだして考えてみたい。「図/地」の一体化はモンドリアンが「赤、黄、青のコンポジション」の場を仕切る絵画で完成させていた。モンドリアンが「ニューヨーク・シティ」であらたに見いだした問題は、「描かれた表面」がキャンバスの織り目や枠などの支持体と同じ物質として見えてきたことだった。モンドリアンは三、四年ほどの期間この問題に取り組んだ。この問題は、いいかえると、絵画の空間的イリュージョンと物質性、すなわち、表面と支持体の問題でもある。しかし、モンドリアンはこの問題を未完成のまま残して亡くなってしまう。

 この問題は、ニューマンの絵画でさえ解決されていないとジャッドは述べているわけだ。なぜなら、ニューマンの絵画の周りを「歩き回る」ことができないからだ。それを解決している唯一の作品例がイヴ・クラインのモノクロームの絵画だとジャッドが述べている。おそらく表面と支持体を一体化させることによって解決しているという趣旨なのだろう。「表面/支持体」は、あくまでも、わたしの補足であって、ジャッドがそう述べているわけではない。ここでは、「歩き回る get around」に注目しておきたい。

ジャッドの「歩き回る」と比較してみたいのは、クレメント・グリンバーグが「モダニズムの絵画」で書いている次の部分である。

 絵画が平面的になっても「視覚的なイリュージョン」は許容しなくてはならない。モンドリアンの絵画の形状も「ある種の三次元のイリュージョン」を示唆している。しかし、モンドリアンを含むモダニズムの絵画では「目によってのみ通過することができるような空間のイリュージョン」なのだ。ここの部分の「目によってのみ通過することができるcan be traveled through,literally or figuratively,only with the eye」に着目したい。(クレメント・グリンバーグ「モダニズムの絵画」の訳文の引用は藤枝晃雄編訳「グリンバーグ批評選集」から)

 ジャッドの「歩き回る」とグリンバーグの「目によってのみ通過することができる」。この二つをくらべてみよう。「目によってのみ通過することができる」のは、「図/地」が一つになった平面での視覚的なイリュージョンの絵画なのである。一方、ジャッドの「歩き回る」ことができる作品は文字通りの三次元、すなわち「表面/支持体」が一つになったリアルな空間なのである。

 ジャッドは、ここから、比喩的にいえば、枠に張られたキャンバスという支持体の枠の厚みを拡張して、文字通りの三次元空間としての箱状の作品をつくったのだ。それは、伝統的な絵画で、支持体の表面で展開されていた三次元の空間的なイリュージョンを、支持体の枠に深い厚みをもたせて三次元にしたリアルな空間だ。「平面体」のバリエーションといってもいいのではないだろうか。作品の周りを「歩き回る」ことができる三次元なのである。「歩き回る」ことができる三次元作品では、絵画の厚みのない表面での正面性は脱臼されてしまう。

 伝統的な絵画での奥行きのイリュージョンがリアルな箱状の空間になって表面と支持体が一体化したジャッドのような作品は、ポスト・モンドリアン、あるいはポスト「ニューヨーク・シティ」として「表面/支持体」にアプローチしているとみなすことができる。

  五 空間へ

 けれども、ここで立ち止まって確認しておかなくてはならないことがある。「表面/支持体」の一体化ばかりではなくて、一体化というシバリをはずして、「表面/支持体」の関係から作品を見ることがわたしの目的だ。

 ストレートに「表面/支持体」の関係から作品を作って大きな成果をあげている作家がいる。一九七〇年前後が主な活動時期だったフランスの「シュポール(支持体)/シュルファス(表面)」グループの一人、マルセイユのクロード・ヴィアラに薫陶をうけた井川惺亮だ。井川惺亮は絵画を支えるものと支えられているものとの関係としてとらえることから出発したのだとわたしは考えている。色と形は相互に支えあい、色と形はカンバスに支えられ、カンバスは木枠に支えられている。どこか、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係を想いだしてしまう。それはともかく、こうした支えるものと支えられているものとの関係をまずバラバラに解体して解放する。具体的には、形から色を解放し、カンバスや木枠は矩形から解放する。次にそれらの要素を相互に呼応・共鳴する照応関係で組み立て直す。本来次元が異なるはずの表面(色や形など)や支持体(キャンバスや枠など)のいろいろな要素を同じ次元で公平に使っていくということだ。異次元結合と名づけてみたい。(3)


      (3)井川惺亮 RING ART2020展 長崎歴史博物館での展示光景


 井川は長いキャリアのなかで、これまでに三つの時期、あるいは三種類の支えるものと支えられているものとの照応関係で作品をつくっている。一つ目は、色、形、木枠、カンバスなどを照応させて矩形の画面にとらわれない色彩空間をつくる。二つ目は主として色を事物や展示空間と照応させて連想を揺さぶり記憶を問い直す。三つ目は色や形、線などを自分自身と照応させて自分と社会を問い直す。

 井川の作品では「表面/支持体」は次のように展開させられている。色と形という「表面」を受けとめる支持体は使い古されたオルガンや筆などさまざまな物が使われる、もう一つの支持体である枠は文字通りの木枠から現実の空間まで作品の領域を決めるものとして機能している。表面と支持体が自由自在に分離されたり結合されたりしている。簡単にいえば、壁にとりつけられた絵画が、バラバラに分解、再構成されて、壁から離れて現実の空間や社会を支持体にして「歩き回る」といってもいい。壁のなかに消えたり壁からでてきたりするアポリネールのコント「オノレ・シュブラック氏の消失」を想いだしてしまう。こちらは分析的キュビスムの時期の話だ。

「表面/支持体」は、さらに別な観点から考えると「イリュージョンと物質性」、あるいは「表象と表象不可能なもの」という問題として設定可能だ。たとえば、アンゼルム・キーファーと原口典之の作品が典型的だろう。

 キーファーの絵画「流出」(4)。これは一九八四から八六年のあいだに複数制作されているようだ。天地四一〇センチメートル、左右二八〇センチメートルの「流出」はとても印象的だ。熱された鉛が画面の上部の描かれた空から下部の描かれた氷の海に焼けこげを刻印しながら流れ落ちている。熱いものと冷たいもの、正反対のものの葛藤と相克が、物質性とイリュージョンとの、いわば異次元結合を通して提示されている


           (4)アンゼルム・キーファー「流出」1984-86年


 これをモーリス・ルイスと比較してみるとなにかがでてくるかもしれない。フリードが解釈したルイスのステイン技法による絵画では、物理的なキャンバスの織り目が色彩の前にある、あるいは上に乗っている。物質性が空間的イリュージョンを圧倒しそうになっていた。キーファーの「流出」は、鉛の物質性が空間的イリュージョンを圧倒していて、空や海のイメージによる空間的イリュージョンは鉛の物質性の奥でひざまずいているのだ。鉛も含めた物質による支持体と描かれた表面は照応している、もう少し過剰にいうと分裂したまま結合されている。だから異次元結合なのだ。空間的イリュージョンの表面と物質の支持体とが入り乱れた葛藤と融和の状態に陥っている。

 原口典之の一九七七年のカッセル、ドクメンタ展でのオイル・プール「物質と精神」では凛とはりつめたオイルの表面は冥界を映しているようで不穏な雰囲気だった。わたしが動くかすかな振動が反映されるし、わたしがオイル・プールの周りを動くにつれて、表面は変化しながら周囲の光景を映しだす。見る者を底なし沼に引きずりこむようでもあれば、反対に見る者の視線をはねかえすようでもある。オイル・プールは置かれている空間全体と見る者の身体感覚を揺れ動かす。もはや厚みのない表面のイリュージョンではなくて、厚みのある表面、すなわち、嗅覚や触覚も刺激する物質としての支持体の空間的な振る舞いがわたしの身体と関わってリアルな経験をもたらす。空間全体を含んだ作品の中や周りを「歩き回る」ことができる。「目によってのみ通過することができる」のではない身体的な経験だ。表面が支持体と一つになって、それが置かれている空間にわたしたちをまきこんでいく。

 置かれている空間によって経験のあり方がちがってくることは、一九八四年秋、東京都美術館で大きく開いたガラス窓のコーナーを挟んで置かれていて、外の秋の景色を映しだしている「物質と精神」を見たときには、カッセルのときとは違って驚くほど美しいと感じたことからも明らかだろう。作品の意味や作者の意図などというのは見る者のロマンティックな妄想なのだとあらためて思い知らされた。身体全体でもろに感じさせられたのである。(5)


           (5) 原口典之「物質と精神」東京都美術館 1984年


 キーファーや原口の作品では物質性がイリュージョンをコントロールしている。すなわち、支持体が表面を圧倒しているのだ。厚みのない表面では経験することができない、厚みのある表面のトランス・リアルな迫力に衝撃を受けたカッセルの夏と東京の秋の経験をわたしはいまだに忘れることができない。

  六「身体的」をめぐって

 中山正樹はパリのポンピドゥー・センター近くのクリストフ・ガイヤール画廊で二〇二〇年一月二五日から二月二二日まで個展を開催していた。新型コロナパンデミックの始まりのころ、ネットで知った。一九七〇年代の中山自身がポーズした写真によるイメージと物体が、三角、四角、円などの幾何学的な形で接合、連続させられている作品から最近の立体の作品までが展示されていたようだ(6)


  (6) 中山正樹 クリストフ・ガイヤール画廊で展示「BODY SCALEsquare  2020年


 カトリーヌ・ミレーが編集していた(いまはどうだかわからない)フランスの美術雑誌「art press」のウェッブ版に展覧会レビューが掲載されていた。おおむねこんなことが書かれていた。イメージと物質、身体と空間が重ねられ照応させられている。それを評者は視覚的なパランプセスト(重ね書きした羊皮紙)と指摘している。特に身体の動きの画像が連続的に重ねあわせられた作品では、物語的な読解を排除して見る者をイメージの連鎖の中に誘いこむと。おそらく、見る者における身体的な経験、すなわち、イメージと見る者が間に意味をはさまないで相対することができるというようなことなのだろうと思う。

 わたしもかつて中山の作品を「イメージと物質」というテーマで書いたことがある。これはキーファーや原口について述べた空間的イリュージョンと物質性に似ている観点だ。そこで、ちょっと気になったので、二〇一八年にチバアソシエイツから刊行された中山正樹作品集に掲載されているわたしの文を確認してみた。

 たしかに似てはいるのだが、それはともかくとして、同じ作品集に掲載されている髙木修のテキストをあらためて読んでみて、納得すると同時に、いまさらのように気になることがあった。引用されているグリンバーグのことばだ。

「視覚芸術にとって、ミディアムは身体的であることが知られている。それゆえ、絵画と純粋彫刻においては、観客を身体的に感動させることを求める」。この訳文は藤枝晃雄編訳「グリンバーグ批評選集」に掲載されている。

 英文のグリンバーグ著作集に掲載されている限りでは、最初の評論がブレヒトの芝居についてと、二番目の「アヴァンギャルドとキッチュ」が一九三九年秋発表、この引用文の「さらに新たなるラオコオンに向かって」は三番目で一九四〇年夏発表だ。「アヴァンギャルドとキッチュ」に似た趣旨で、相互に補完しあうような文になっている。すでにこのころグリンバーグは作品理解のメインとなる「ミディアム」思考が完成させていたわけだ。

それはさておき、以前、訳文を読んだときから「ミディアムは身体的」とか「観客を身体的に感動させる」とはどういうことなのか、と、疑問に思いながら、そのままになっていたことを思いだした。

 髙木修が引用している部分の最初の方の「ミディアムは身体的」の「身体的」は、グリンバーグの原文だと「physical」となっている。後ろの方の「観客を身体的に感動させる」の部分も「physically」だ。前者は作品や作者の側の「身体的」で、後者は作品を見る享受者の側の「身体的」だと理解できる。

 後半の「観客を身体的に感動させる」の方から検討した方がわかりやすいかもしれない。このフレーズのもう少し後の方の文をとりだしてみる。絵画や彫像は「そのものと確認したり、それと結びつけたり、それについて考えたりするものは一切なくて、ただ感じるものだけがある(but every thing to feel)」と書かれている。「身体的に感動」と「ただ感じるものだけ」を結びつけて考えると、意味や物語などを考えさせられるようなものは一切なくて、いわば即物的に、色や形、線、絵具のタッチなどのミディアムの状態それ自体の「ただ感じるだけのもの」を通して「感動する」のだということになる。「ただ感じるだけのもの」としてのミディアムと「感動」が直結している。それが「身体的」に「感動」するということなのである。物質化された音声のオノマトペーを聴くときの経験に似ている。原口のオイル・プールで述べた「作品の意味や作者の意図などというのは見る者のロマンティックな妄想なのだ」をもう一度くりかえしておきたい。

 意味を探る眼差しから解放された状態で、目が身体となってする。「感じる」のは眼を通してだが、「感じる」対象は意味ではなくてミディアムそのものなのだ。見る者のこうした応答が「身体的」なのである。ついでにいっておけば、ミディアムのこうしたあり方、あるいはミディアムのこうした受けとり方が、グリンバーグが主張するようになる純粋視覚につながっていったのだろう。

 では、「ミディアムは身体的」とはどういうことだろうか。アクション・ペインティングとか作る行為というようなことを想起しがちだが、書かれたのは一九四〇年なので、そういう問題ではない。グリンバーグがリー・クラズナーの紹介でポロックと知り合うのは1942年、ポロックがモンドリアンの紹介でペギー・グッゲンハイムの画廊のグループ展に「速記の人物」を展示するのも1942年なのだ。

 グリンバーグはこのフレーズの直前で「ある芸術の独自性を回復するためには、そのミディアムの不透明性が強調されねばならない」と書いている。ミディアムの不透明性というのは、ミディアムがほかのなにかの道具になることで透明になって自らの姿を消すのではなくて、ミディアムがそれ自体として現れているということだ。たとえば、ポロックがオール・オーヴァーのポード・ペインティングで描いているミディアムとしての線は、ひたすら繰り返されている線以外のイメージや意味を表す道具にはなっていないとしたら、これが不透明性の例だ。いや、厳密には、イメージや意味が感じとられたとしても、線を線として受けとることができれば不透明な状態だということができる。それはここでは問わない。色や形は、人や静物である前にある色でありある形なのだ。それがなぜ「身体的」なのか。

 したがって、ここはミディアムが身体的という以上に、ミディアムが不透明になっているので身体に働きかける機能があるということだと解釈したい。ここでの「身体的」は実在的とか物質的というニュアンスで使われているのではないだろうか。いずれにしても、ミディアムは意味や物語、作者の意図の代理などではないがゆえに「身体的」、すなわち、これも批判され尽くしたことばだが、「それ自体」的なものなのである。だからこそ、意味を探る眼差しから逃れて、観客をミディアムそれ自体の美しさなりなんなりで「身体的に感動させる」ことができる。

 中山正樹の作品「ボディ・スケール」での身体もこうしたミディアムなのである。こう考えると、原口典之の「物質と精神」での身体性と中山正樹の作品「ボディ・スケール」での身体性はとても近似したミディアムと経験だということをあらためて実感しないわけにはいかない。さらに、グリンバーグの純粋視覚は意味を媒介にしない身体的な経験ということでは、原口や中山の作品を前にした時の経験と同じではないだろうか。

  七 宮川淳の「表現過程の自立」や「表現から表現論へ」

「美術手帖」一九六四年四月号から七月号、それと「アンフォルメル以後 日本の美術はどう動いたか」一九六四年七月、いずれも美術出版社発行。これらをモチーフにして「ポップ・アート&反芸術論争」のなかの、特に宮川淳の「表現過程の自立」や「表現から表現論へ」。これらを巡ってすでに何度か書いたことがある。わたしの遅々とした思考の歩みでは、なかなか納得するような理解をえることができなかった。十年ほど前に、やっとどうにかわかったかなという感じになった。最も近くでは二年前の「游魚」六号の藤枝晃雄について書いた文の「注」で結論部分を記しておいた。ここでは、宮川淳のこれらのことばが生まれてきた当時の状況をふりかえりながら、わたしなりの理解に決着をつけて、次のステップにつながる可能性を多少なりともつかまえてみたい。

 一九六四年、厚さ七ミリほどの「美術手帖」は大学生になりたてのわたしにとって現代美術の教科書だった。「芸術生活」で始まった東野芳明と高階修爾の「ポップ・アート論争」は、「美術手帖」四〜七月号までの「反芸術論争」に継承展開された。宮川淳の表現過程の自立」と「表現から表現論へ」をはじめとして、アンフォルメルについての「ジェストとマチエール」、さらに「永遠の可能性から不可能な可能性へ」などは、なんだかわからなかったが、聖女テレサの恍惚状態となりかねないような魅力があった。

 さらに同じ頃、「反芸術」の当事者ともいうべき篠原有司男らのネオダダ・オルガナイザーの「オフミューゼアム」展を六月に新宿の椿近代画廊で見たのだった。たまたま、会場にいた篠原有司男はモーター仕掛けのハリボテのデュシャンの頭をぐるぐるまわしながら、「デュシャンなんてこんなもんよ」とかとつぶやいた。これで一挙に洗脳されて、すぐあとの内科画廊での「篠原有司男、初夏をうたう」展を見たり、同じ六月の内科画廊の<コレガゼロ次元ダ>展シリーズも訪れて、尻にロウソクを立てている儀式だかパフォーマンスだかを見た。まだ一八歳の田舎からポッとでてきたばかりの少年の頭は半ばパニック状態になったにちがいない。こういう現代美術イニシエーション体験と意味不明だけど魅力的な反芸術論争がごっちゃになって、悪女の深情け状態で記憶に深くすりこまれてしまったのだ。(7)


     (7)篠原有司男「ラブリー・ラブリー・アメリカ ドリンク・モア」 1964年

「ポップ・アート論争」はとりあえず脇において、「反芸術論争」をふりかえってみよう。発端は、「美術手帖」四月号、宮川淳の「反芸術 その日常性への下降」だ。一月三〇日にブリヂストン美術館ホールで開催された東野芳明の司会による公開討論会「“反芸術”是か非か」の報告から始められている。登壇者は三木富雄、磯崎新、一柳彗、池田龍雄、杉浦康平、針生一郎、そこに飛び入りしたのが篠原有司男や立石鉱一などだった。

 宮川淳はレポートを記した後で「表現過程の自立」を次のように使って文を書いている。ジャスパー・ジョーンズの「旗」を例にとりながら、「日常的なイメージや主題を導入させたものが、表現過程の自立」なのだが、「ここでは単に表現過程の事物性への自立ばかりではなく、さらに事物の行為への還元という二重の操作が行われている」。だから、「客観的なリアリティの概念が否定される」。そして、レオ・スタインバーグの「二〇世紀芸術の決定的な問題、つまり、いかにして絵画をファースト・ハンドのリアリティにするかという問題は、主題が自然から文明に移るとき、おのずから解決される」を引きあいにだしながら、「ジョーンズの芸術は、レアリテという古典的な認識概念を空無化させることによって、近代芸術の神話「レアリテ」−客観的なレアリテに対抗するもう一つのレアリテのアリバイ提示であった」。フランス語のレアリテの元になるレールの語源は物だったことを確認しておきたい。「近代芸術の神話」と違って、物だからレアリテだとはかぎらないのである。

 芸術が日常化して芸術を芸術たらしめる基準が失われたのだから、反芸術だの非芸術だのは問題ではなくて、「不在の芸術はいかにして存在可能かという不可能な問い」になる。「「神」を捨て、「美」を捨て、ついに「レアリテ」を捨てたとき、芸術はそのもっともあらわな姿を見せるのだろうか」と結論して、オルフェウスは「ユーリディスを永遠に失ってもふりかえらなければならなかったのだ。その根源的な焦燥−おそらく、そこにこそ、反芸術の真の偉大を悲惨がある」と解決不可能な美しい悲劇の喩えでしめくくっている。鳥肌もののことばではないか。

 東野芳明の反論は次の五月号に「異説・反芸術−宮川淳以後−」のタイトルで掲載された。それに対して六月号で再び宮川淳が反論したのが「“永遠の可能性”から不可能性の可能性へ−ヴァレリアンであるあなたに」だ。ここで、「表現から表現論へ」と「表現過程の自立」はつなげて述べられている。

ちょっと長いが引用しておこう。「存在的と存在論的の区別にならっていいえば、問題はすぐれて表現論的なのです。つまり、なにが、いかに描かれているかという表現的次元−対象・方法−に対して、表現論的次元とは表現過程の現象学、いいかえれば、表現行為とそれを支える表現概念との認識論的な構造の問題です。なぜなら、表現行為そのものはアルタミラの洞窟以来、変わることなくつづいているとしても、一方、スタイルは個人的なものであるとして、その表現行為が意味づけられるコンテクスト、表現概念は歴史的なものだからです」。なかなかわかりにくい。そして、さらに、この反論の末尾近くでこう次のように敷衍している。「日常性を導入したものが、表現過程の自立にほかならなかった」のだが、「表現過程の自立はまさしくこのような近代の表現概念の価値転換だったのであり、・・・そしてそのこと自体によって、「不在の芸術はいかにして存在可能か」という不可能な問いにまで到達した」のである。ここで、「表現過程の自立」や「表現から表現論へ」、そして謎めいた「永遠の可能性から不可能な可能性へ」などが結びつけられている。

 「存在的と存在論的」と「表現と表現論」を並行させて述べている。これは、たとえば、ハル・フォスター編の「視覚論」(榑沼範久訳)の序文でハル・フォスターが述べている視覚と視覚性の違いを参考にすればさらにわかりやすいだろう。「視覚(ヴィジョン)と視覚性(ヴィジュアリティ)という二つの言葉がある。肉体のメカニズムによって形成されるのが視覚であり、社会的事実として形成されるのが視覚性であるとも言えるだろう」。しかし、これを存在的と存在論的とに短絡してつなげるのは注意しなくてはならない。フォスターはつづけて述べる。「しかし、この二つを自然対文化として対立させるべきではない。なぜなら、視覚は社会的・歴史的でもあるし、視覚性は身体や精神にわかちがたく結びついているからだ」。としたら、スタインバーグの「リアリティ」も「主題が自然から文明へと以降」したからといって、「おのずから解決できる」かどうかには疑問符がつけられる。

  八 作品成立の仕組みと「表面/支持体」

 宮川淳と東野芳明が論争の総括をしたのが、東野芳明では「美術手帖」一九六四年七月号で連載し始めたばかりの「デュシャン「グリーン・ボックス」断想3−論争にかえて」のなか、宮川淳では単行本にまとめられた「アンフォルメル以後 日本の美術はどう動いたか」の「変貌の推移 モンタージュ風に」だ。東野の文の末尾には「世界は一つ東京オリンピック」とある。一〇月が東京オリンピックだったのだが、どうでもいいこととはいえ、これはなんだろう。

 ポスト・モダニズムの思考を先取りしている宮川の「引用」は「変貌の推移 モンタージュ風に」が初登場かもしれない。その後、「表現過程の自立」や「表現から表現論へ」、「永遠の可能性から不可能な可能性へ」などは直接論じられることはなかった。かわりに、「引用」論や「引用」の実践で継承展開されたのだろう。

 次の部分に注目してみたい。「表現過程の事物性への自立ばかりではなく、さらに事物の行為への還元」。絵画に用いられている事物(物質)と描く行為は同じ次元で扱われている。これを、ジョーンズの「旗」やレオ・スインバーグの「ファースト・ハンドのリアリティ」と関係づける。そして、「アンフォルメルの絵画で宮川が定義した「ジェストとマチエール」とからめて考えてみると、ジョーンズ以上にわかりやすい作品例は、ロバート・ライマンのファンダメンタルな絵画だろう(8)

 ライマンのストロークを右から左に繰り返した白の絵具による絵画。キャンバスという物質と絵具という物質、描く行為などの絵画の基本三点セットからできているライマンの絵画は、絵画が成り立つ仕組みを表現に結びつけている。「表現過程の自立」が「表現から表現論へ」とつながる。そして、日常的な事物にまで「下降」してしまった「不在の芸術」の存在可能性が提示されているのだ。


(8) ロバート・ライマン「無題」1965年

宮川淳は七月にだされた「変貌の推移 モンタージュ風に」の最後のあたりで、「そこに何が、どのように描かれているか、というア・ポステリオリな意味だけではなく、あるいは、少なくともそれよりも前に、表現行為そのものの意味の変容が問われるべきなのだ。」と、あらためて記している。

 結局、「表現過程の自立」とは、絵画のミディアムである色や形のための道具として透明になっていた描く行為としての「ジェスト」や絵画の材料としての「マチエール」、あるいは画面型やキャンバスなどが、不透明なミディアムとして「自立」しているということになる。それは、もはや、素朴に「表現」とみなすことはできない。絵画の成り立ちの条件や仕組みをあらわにしている。そのことが「表現論」なのである。

 こういう風にたどってみると、宮川の「表現過程の自立」や「表現から表現論へ」は、グリンバーグの「アヴァンギャルドとキッチュ」の次の文を想いおこさせずにはいない。「芸術家が模倣しているのは神ではなくて・・・芸術や文学そのものの規律と過程であることが分かる。これが「抽象」の起源なのである。詩人や画家は通常の経験という主題から注意の眼をそらして、その眼を自らの手仕事のミディアムに向ける」。「いったん通常の外向的経験の世界が捨てられると、この制約の唯一残されているところは、芸術と文学がその世界を模倣するのにすでに用いていたまさにその過程とか規律の中だけとなる」。セザンヌでさえも制作するミディアムからインスピレーションを得ている」という場合のミディアムは「空間、表面、形体、色彩など」だ(引用は藤枝晃雄編訳「グリンバーグ批評選集」)。

 ミディアムは作品を成り立たせている要素で、これが、グリンバーグのミディアム思考の基本だ。そこから絵画というもう一つ次元の異なるミディアムが自己の限界を明らかにすることで表現を追求する自己批判性へとつながるのである。宮川の「表現過程の自立」が「表現から表現論へ」はグリンバーグのミディアム思考と近しい関係にあることがわかる。違っているのは、色や形よりも一段階前の「ジェスト」や「マチエール」というミディアムに焦点をあてていることだ。また、宮川の「不在の芸術はいかにして存在可能かという不可能な問い」は、グリンバーグの「自己批判性」と並べて理解することができる。共に、誤解をおそれずいうと、作品が成り立つ仕組みから作品にアプローチするということである。

 わたしがその当時感心したことばはほかにもある。高階秀爾のとても明晰な二〇世紀美術論(当時は「現代美術」というタイトルで筑摩新書としてだされていた)での「オブジェのイマージュ化からイマージュのオブジェ化へ」だ。

 高階秀爾のオブジェのイマージュ化からイマージュのオブジェ化へと宮川淳の思考をつなげてみたい。高階秀爾は次のように述べている。伝統的な絵画では、人や静物などのオブジェがイマージュとして絵画に描かれていた。けれども、現代美術では、たとえばリキテンスタインやウォーホルのように漫画や写真などのイマージュが絵画というオブジェにされている。絵画がオブジェとして発見され直していることが重要だ。拡張していえば、絵画は表面の出来事ではなくて支持体も含めた出来事になったということだろう。


           (9)ルチオ・フォンタナ「空間概念 期待」1961年


 フォンタナの「空間概念 期待」(9)の表面の痕跡は、遠くから見ると線というイマージュだが、近づいてみるとキャンバスの物理的な裂け目で暗い奥が見える。線というイマージュは、実は、キャンバスの裂け目というオブジェになのである。切り込みがはいっているから厚みのある表面である。非物質のイマージュとしての線が、実は、キャンバスの裂け目という物質なのだと、手品の種明かしをしているのに似ている。絵画が成立する仕組みを見せているのである。盛り上がった油絵具でも、実は同じことなのだが、厚みのない表面という約束事にしたがって見る場合には、それは視覚的な効果だと理解する。別ないい方をすると、作品成立の仕組みを、いわば、楽屋落ちのような感じで見せていることになる。宮川淳風にいうと、わたしたちは、線という「表現」よりも、線を成立させている「表現論」を、物質としての裂け目が導入されている「表現過程」のなかに見いだすことになる。さらに、フォンタナの切り裂く行為は宮川の「ジェスト」であり、それによってつくられた裂け目は「マチエール」だとみなすことができる。「表現過程の自立」だ。したがって、高階秀爾も、やはり、グリンバーグのミディアム思考や自己批判性と同じ問題に別の視点からアプローチしているとみなすことができる。

 ここでのイマージュとオブジェを、描かれた表面とそれを支えている支持体に置きかえて考えてみるのは興味深い。線に見える描かれた表面は、近づいて見ると支持体のキャンバスの織り目につけられた裂け目なので、キャンバスの前の見る位置によって裂け目は違って見える。すなわち厚みのない表面の場合の正面性が脱臼されている。いいかえると、フォンタナは正面性に風穴をあけることによって、「図/地」ではない「表面/支持体」として絵画を見直すことをわたしたちに促しているのだ。あるいは、フォンタナもまた、裂け目によって「表面/支持体」を発見したのだといえるだろう。

  九 「あゆ」の掛詞的な展開

 わたしは、二〇二〇年八月二九日から九月二七日まで開催されたの富山県小矢部市、アートハウスおやべの開館五周年展の企画にかかわった。「あゆのかぜいたしくあゆはしる—見えないものに触れる時」という長いタイトルの展覧会だ。越中富山というと万葉歌人大伴家持が国司として五年間滞在して多くの歌を詠んだことでしられている。そこで、わたしは、この企画展の趣旨を、家持が初めて越中富山を訪れたときの気持ちに、わたしが富山を初めて訪れたときの気持ちを重ねあわせて照応させながら、家持の歌をモチーフにして展覧会のタイトルや趣旨を検討しようと思った。ことばの周りを歩き回る記憶や連想、ことばの音声による「身体的」な経験といった観点から、タイトル決定のいきさつや、展覧会の趣旨などを記してみたい、

 わたしが、富山を訪れた最初は、まだ富山県立近代美術館だったころ、サム・フランシス展が開催されていた1980年代後半だった。羽田から富山空港に降りたときの透明で爽やかな光景がとても新鮮だった。雑然として慌ただしい羽田に比べると、自分の庭のようにすっと気が抜けた気分になったのを昨日のことのように想いだす。こうした気分は東京にいただけではわからないし、富山にいただけでもわからないだろう。わたしのなかで両方の土地が交錯し照応しあったときに初めて味わえる気分だと思う。

 昨年、新しい元号が使われるようになった。新元号、令和は、万葉歌人大伴旅人の赴任先、太宰府の旅人の官邸で開かれた梅花の宴のときに詠まれた歌につけられた序文から採られているというので、人並みに万葉集を調べているうちに、旅人の息子家持が富山に赴任していたことにあらためて気づいた。家持は異郷の富山でなにを見てどう感じたのか、小矢部にはどんな興味を抱いたのか。知りたいと思った。

 いまから1274年前、奈良の都から越中富山の地に初めて足を踏み入れたときの宮廷の官吏で万葉歌人大伴家持も、わたしが初めて富山に着いたときと同じように、都と越中富山とが交錯、照応する不思議な気分に見舞われたに違いない。事実、この地で詠んだ歌にそのことがよく示されている。大伴家持が越中国守として現在の高岡市に赴任したのは746年。それから5年間滞在しているあいだに220首もの歌をつくっている。生涯でもっとも多作の時期だ。家持は、富山で、なぜこんなに多くの歌をつくったのだろうか。

しばしば指摘されているように、奈良の雅の都を離れた大宮人家持が鄙の地にあって都を思う望郷にかられたことが理由の一つであることはたしかだろう。他方で、望郷の思いは、異郷の風物や生活への驚きと興味をかきたてる。フィードバックして、異郷での新鮮な感動が望郷の思いを高め、さらに、望郷の思いが異郷への興味をかきたてる。望郷と異郷への興味。二つが木霊のように相互に交錯して照応する。照応がくりかえされるにしたがって、二つの思いはもう一つの違った望郷の気持ちと異郷への愛着にかわっていったようだ。だからこそ、家持の作歌への意欲を刺激せずにはおかなかったのではないか。

こうした相反する二つの思いの交錯と照応を象徴的に示しているのが、越中富山でつくった歌で万葉集に四度登場する「東(あゆ)風」だ。現在では「あいの風」とか「あい」とよばれる夏に吹く「東の風」は、万葉の時代には「あゆのかぜ」とか「あゆ」といわれていた富山地域の方言のようだ。

 

射水川(*現在の小矢部川清き河内に 出で立ちて わが立ち見れば 東(あゆ)の風 いたしく吹けば 水門には 白波高み・・・ (別れの長歌 747年 万葉集)

 

 これは、赴任途中で都に仕事の報告にいく家持を送る友人大伴池主に向けた別れの長歌の一部分。東風が激しく吹き、港に波が高くなった様子に、倶利伽羅峠を越えて奈良の都まで行く過酷な旅への思いを重ねている。厳しい異郷の光景と望郷の奈良へ向かう困難な旅が交錯し照応させられている。家持の気持ちがリアルに伝わってくる。

 

 家持の歌にはもう一つ別な「あゆ」がある。

 

鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養(うかい)が伴は ゆく川の 清き瀬ごとに 篝(かがり)さし なづさひのぼる露霜の 秋にいたれば 野も多に 鳥多巣けりと・・・」(長歌 鷹狩の大作 747年 万葉集)

 

 秋の鷹狩りで放逸してしまった鷹「大黒」を偲んで、夏の鵜飼の時の鮎を想いだしながら詠んだ長歌の一部分。秋と夏、鷹狩りと鵜飼とが照応する。そこに、都での鷹狩りや鵜飼、さらに、太宰府に赴任した父旅人が薩摩で鮎が泳ぐ川の激流を見て都の吉野川を偲んで詠んだ歌なども家持の歌に呼応しているようだ。

 

 これらの歌で、意味の異なる「東風」と「鮎」の二つが、一つの「あゆ」で重なると、東風の激しい吹き「流れ」と鮎が上っていく川の激しい「流れ」とがずれながら照応する。そうすると、「東風」だけ、あるいは「鮎」だけの歌を読んだときよりも、「東風」も「鮎」もわたしのなかに引きおこされるイメージがより強く、よりリアルにふくらんでいくような気がする。「東風」と「鮎」に潜んでいる望郷の思いや異郷への愛着も手で触れることができるほど身近に感じられるのである。

家持の「東風」と「鮎」、「あゆ」などと同じように、絵画に描かれた色と形も、いくつかの異なるイメージがそこで交錯し照応するとき見る者によりリアルな経験をもたらさずにはおかない。一つの色と形が見る者の眼差しのなかでずれて、差異化され、複数の色と形になって、交錯し、照応しあう。あるいは、逆に、複数の異なる色と形が交錯し照応して一つに重なって見えてくる。そうすると、それまで見えなかったものが強度とリアルさを倍増させて、もう一つの別な世界が手に触れられるかのように現れてくることがある。

こうした想像のなかで色や形と自由に戯れることをとおして、作品はわたしたちのなかに潜んでいる想像することへの望郷に似た思いを呼び覚ます。あるいは、日常から離れた想像という異郷の地へとわたしたちを羽ばたかせてくれるだろう。絵画は、画面の中の色と形ばかりではなく、色と形を支えている支持体や作品が置かれている空間、さらに作品制作のプロセスなどのすべてが交錯し照応して、わたしたちを異郷の旅へと誘いだす。その旅は、普段の日常生活では見えなかった異郷を、すなわち非日常の不思議な世界を手で触れているようにリアルに経験させてくれる。これも「身体的」な経験ではないだろうか。

  一〇 思考としての思考

 この号では、ことばの周りを「歩き回り」、ことばを「目によってのみ通過」してしまったような気がする。グリンバーグのミディアム思考やミディアムの限界をたずねる自己批判性は批判され尽くした感があるので、そんな廃鉱にレアな思考が残されているのだろうかと思われるだろう。事実、とっくの昔に次のステップに移っている。けれども、たとえば、絵画制作において、あるミディアムの独自性や可能性を探って絵具などの材料が引きおこす出来事をコントロールし、絵画の正面性や、それと関わった表面と支持体の関係などに注目し、絵画でなにができるのかと考えながら制作をするのはごく当たり前のことだ。そして、作品を享受する者が、意味や作者の意図というようなところから作品を理解するのではなくて、まず、作品のミディアムのあり方を「身体的」に経験することから始めることも当然なのだが、いま、あらためて重要だと思う。いずれにしても、掘り当てるべきレアな思考は、実は、思考することそれ自体のなかにある。

 

掲載図版キャプション

(1) ピート・モンドリアン「ニューヨーク・シティⅡ」一九四二年〜一九四四年

(2) モーリス・ルイス「No End」一九六二年

(3) 井川惺亮 RING ART二〇二〇展 長崎歴史文化博物館での展示作品

(4) アンゼルム・キーファー「流出」一九八四〜一九八六年

(5) )原口典之「物質と精神」東京都美術館 一九八四年

(6) 中山正樹 クリストフ・ガイヤール画廊で展示された「BODY SCALE square」二〇二〇年

(7) 篠原有司男 ラブリー・ラブリー・アメリカ(ドリンク・モア) 一九六四年

(8) ロバート・ライマン「無題」一九六五年

(9) ルチオ・フォンタナ「空間概念」 一九六一年