2012年6月20日水曜日

第12回 映画「ティファニーで朝食を」 1960年 アメリカ パラマウント映画 記憶と現在


今、なにかを見ているとき、見ているものとかつて見たことのある別なものの記憶とが重なったり混ざりあったりすることはないだろうか。
ポロックの曲線を積み重ねて繰り返された絵画には、ピカソの「ヘルメティックキュビスム」のころの直線を繰り返した絵画が重なる。そこにはさらにモンドリアンの「+-」の絵画が混ざり、フランク・ステラの「黒の絵画」さえ引き寄せられてきそうになる。
ポストモダン風のジャメ・ヴュや既視感、リメイクというニュアンスとはちょっと違う。再生産・再創造といってみたい。
最近テレビで「ティファニーで朝食を」を見た。以前、見たときには現れてこなかった記憶が連想ゲームのように重なり混ざりあってしまった。原作はトルーマン・カポーティらしい。なるほど、と思う。
映画「ティファニーで朝食を」のテーマをたとえばこんな風だと思ってみたい。束縛の側面が強調された「愛」と、それとは異質な「自由」とは、いつ、どこで共存して調和するのか。消費資本主義社会を生きる主人公(ヘップバーン)は、異質なこれら二つを共存させるのはお金だと考えていた。けれども、最後に恋人の駆け出し小説家のことばで覚醒して、お金がなくても「愛」と「自由」が共存して調和する道があることに気づく。ハリウッド映画らしいハッピーエンドだ。
もちろん、これには伏線がある。おまけでもらった指輪にネームをいれることを二人に承諾するティファニーの店員。消費資本主義のシンボルとして設定されていたブランド宝飾店ティファニーは、お金が少なければ少ないなりの「愛」のキューピッドになりうる可能性を示唆していた。
最後に雨に濡れた猫を間にはさんで雨のなかでハグしあう二人。ここにくるとヘミングウエイの短編小説「Cat in the rain」(「われらの時代」所収)がコダマしていることがはっきりする。
Cat in the rain」ではホテルに泊まっているアメリカ人の若い妻は窓からみつけた雨に濡れている子猫を気遣う。夫は同じ気持ちを共有する「愛」よりも、気持ちの共有という束縛から自由になることを望んでいる。本を読み自分の世界に没頭したいのだ。この若いアメリカ人夫妻の間には「愛」がないことがヘミングウエイ独特のハードでドライな文体から伝わってくる。
映画「ティファニーで朝食を」と「Cat in the rain」は正反対の結末を暗示している。しかし、二つは「愛」と「自由」は調和できるのか、と同じように問いかけている。ドライな雰囲気のなかでのウエットな雨と雨に濡れた猫も、この映画と小説に重なりあう。
それから十数年後の1978年、シンディ・シャーマンは「無題 フィルムスティール 15」で映画「ティファニーで朝食を」を再生産・再創造したのだった。
参考;「ティファニーで朝食を」http://www.youtube.com/watch?v=utAGOxLMFlY

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