2019年2月4日月曜日

岩本拓郎「茶色の小瓶」 吉祥寺美術館




「岩本拓郎 すべての いろと かたち」展を吉祥寺美術館で見た。

11cmの正方形シリーズがメイン。
それのきっかけになったという2002年に紙に油絵の具で描かれた「茶色の小瓶」(69×36cm)が、とても素晴らしかった。

それまでの岩本拓郎の絵画を想いだしながら、次の二つのことがらにとりわけ気づかされた。
一つは、基本的に画面のフレームに対して水平と垂直方向のストロークでできあがっていることだ。
これは、画面型や画面の枠への着目、左右と上下のストロークという二つの要素を含んでいる。
もう一つは、おそらくホワイトとブラック、ブラウンの三色でできあがっているのではないかと思うのだが、彩度が低く、色彩感が希薄になりかねない色がこのうえなく美しく輝いていたことだ。

構成や絵の具の混ざりあいや塗りむらなどもそうなのだが、「茶色の小瓶」の前に立ったとき、とくに、色に関して、アンリ・マチスが初めて訪れた冬のニースの地中海に触発されて描いた「窓辺のバイオリニスト」(1917-18年)*1を思いだした。
パリのポンピドゥー・センターにある「窓辺のバイオリニスト」の色彩は、グレーがかったブルーとピンクのコントラストが、地中海から漂ってくる風と光のように、ベージュやブラウン、そしてホワイトとブラックに浸透していく。
ピンクといっても淡い藤色がかったピンクなので、フランスなら淡いリラという感じ方かもしれない。
マチスの絵画の場合、こうした、画面のいたるところで低く静かに鳴り響いて画面全体をコントロールしている対比的な色彩は「窓辺のバイオリニスト」ばかりではない。
わたしににとって印象深いのは、同じポンピドゥー・センターにあるサン・ミシェル河岸のアトリエで描いた「室内、金魚鉢」(1914)*2もそうだ。
こちらは、構図的にも空間が揺れている。

タイトルの「茶色の小瓶」は、わたしにとっては、当然、グレン・ミラーの軽快なスイング・ジャズを想いだすことになる。
そういえば岩本さんは歌やギター演奏もうまいらしいなあ。
「スイング」から連想が動き始めると、岩本拓郎の「茶色の小瓶」の方は、スイングというよりも「スワイプ・ペインティング」といってみたくなる。
そうすると、フリックやタップなどとデジタル端末のタッチ操作のいろいろが眼前をよぎっていく。

「茶色の小瓶」の画面の上部、絵の具のスワイプは左右に繰り返されながら、下に向かう。
「小瓶」の肩あたりでは右半分で幅広のスワイプになって、そのまま中央の上下のスワイプにつながりながらつややかでつるっとした分かれていながらつながっている左右の面に移行していく。
そして、画面下部の右側でもう一度、繰り返される左右の幅広のスワイプが現れる。
絵の具の触覚的な物質感や、緩急さまざまなストロークが展開されている。
湧出するイメージと、イメージを湧出させながら逆にイメージを抑制して触覚を刺激する絵の具の物質感。その二つが寄せては返す波のように押しと引きをくりかえす。
こうしたスワイプするストロークの繰り返しで絵の具とイメージがダブる様子は、視線が動いて見ている光景が視野のなかでまざりあう感覚 とよく似ている。
いかにもらしい言い方なので、いささか躊躇してしまうが、セザンヌのダブって震える輪郭線やパサージュで 連続させられているタッチによる小さな面などを想いおこしたりしてしまう。いそいでつけ加えなくてはならないが、しかし、セザンヌとは違って「かたち」へ向かっているのではなくて、「かたち」を描くことから解放された「描く」ことそれ自体の力強さなのだ。
だから、たしかに揺れ動いている自分の身体を使って見ているのだと実感するような、見ることのリアリティを経験させられるのである。
描く道具はゴムヘラなんだと思うが、ゴムヘラを動かすたびにあらたな多数多様なイメージがサイバー・スペースでの情報の生成消滅のように湧きだしてきたのだろう。

岩本拓郎の「茶色の小瓶」の前で思いをめぐらせながら何回か瞬きを繰り返すと、今度は、アール・デコのころのシャネルの「ナンバー5」が「茶色の小瓶」に重なってくる。「ナンバー5」の瓶はアール・デコのマシン・エイジに典型的な蒸気機関車や自動車と同じような機械的で幾何学的なデザインだから無機的なイメージだが、 そこから、無機的なイメージとは正反対な有機的で触覚的な匂いが漂いだしたところがおもしろかったのだろう。
岩本の「茶色の小瓶」のイメージや、デジタル機器の情報が湧き出してくるのとは違って、「ナンバー5」は匂いが現前してくる。

ちょっと、脇道にそれて、わたしの用語でいいかえておきたい。
今、上で言及している「ナンバー5」、岩本の「茶色の小瓶」、デジタル機器などは、そのどれもが、 材料や支持体とそこから生成されて現れてくるものとの間の差違が重要だ。
絵画に即していえば、「支持体」と 「表面」、あるいは「材料(ミディアム)」と「表現(リプレゼンテーション)」との差異のあり方が表現の質を決定しているのである。
「茶色の小瓶」では、支持体である画面に 並行して滑走する絵の具は、あるシーンでは支持体から反り返り盛りあがった絵の具の物質性を感じさせ、また、別のシーンでは 急旋回をおこなって支持体から離反 する。 あるいはストロークのからみあいの 中から幻のようなイメージがふいに 視野を横切る。
描かれるべき表面(支持体)と描かれた表面、絵の具とそれのあらわれ、それらの 距離のとり方が融通無碍で絶妙ではないだろうか。

それはともかく、無機的な「ナンバー5」の小瓶が有機物のように柔らかくなり溶けだす。
岩本拓郎の「茶色の小瓶」も、連想された軽いスイングジャズの「茶色の小瓶」や無機的な「ナンバー5」から再び変容してしなやかになって飛翔していく。
スワイプだろうと匂いだろうと、いずれにしても、なにかさまざまなものが、画面から湧出して漂いながら画面の前のわたしに向かって流れでてくるのだ。

左右上下のストロークとか画面型や画面の枠への着目とわたしは最初に書いた。
それらが、長い間、岩本拓郎の絵画を支配していた。
しかし、「茶色の小瓶」以後・・・かどうかは断言できないが、少なくとも「茶色の小瓶」を描くことで岩本拓郎は以前よりもより自由に描けるようになったのだと思う。
左右上下のストロークとか画面型や画面の枠などへのこだわりを越えたということでもある。
凡庸ないい方をすると、ミニマリズム的ポジションを糧にして大きく飛躍したということになるのだろうか。
ミニマリズム的ポジションとは、どういうポジションなんだろうと問い直してみる。おそらく、作品に現れていた空間的なイリュージョンが支持体や材料の物質性のなかに吸収された状態、あるいは、空間的なイリュージョンが作品全体として一つになったまとまりを失った状態のことだろう。
そのとき、たとえば絵画は、どういうかたちで成り立ちうるのかが求められたのであり、それを求めることでミニマリズム的ポジショニングを克服することができたのだった。

比較的縦長の画面のなかにかろうじて収まっている「茶色の小瓶」は、マチスの「窓辺のバイオリニスト」で、バイオリニストが窓のフレームに収まっていながら、バルコニーやその向こうの地中海の海と空、そして室内へと、音楽のように漂いだし、すべてを協奏させているのと同じように、左右上下のストローク、画面型や画面の枠などから解放されて、画面全体が静かに、そして、力強く脈動しているのである。

ここ数年のあいだにわたしが見た絵画でもっとも素晴らしいと感じたものの一つだ。

マチスの画像はポンピドゥー・センターのサイトで見ることができます。色が強すぎですが。 
*1 アンリ・マチス「窓辺のバイオリニスト」https://www.centrepompidou.fr/cpv/resource/cRRdKkE/rdqG4E7
*2 アンリ・マチス「室内、金魚鉢」
https://www.centrepompidou.fr/cpv/resource/c4r574B/rpgA5BB

「岩本拓郎 すべての いろと かたち」展
 2019年1月12日〜2月24日 吉祥寺美術館


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