「見ることの誘惑」 第五十回
「光を抱く絵画」
山田正亮 「Work C-273」1966年 162×130cm 埼玉県立近代美術館所蔵
山田正亮 「Work C-273」1966年
ペイントストロークの微妙で多様な痕跡が残されたホワイトの表面。
空漠としたホワイトがかすかに波立っている。眼の中で生産される色彩を描いたクロード・モネやアルフレッド・シスレーは好んで雪原を描いた。ホワイトは太陽光の下で多様な色彩を生みだすからだ。モネの「かささぎ」では、ホワイトの雪原にモネの眼がとらえた網膜現象のさまざまな色彩が実際に定着されている。
クロード・モネ かささぎ 1869年
しかし、山田正亮の「Work C-273」では、見る位置とライトの具合で、ホワイトが光を反射して、ときおり、そこには定着されていない色彩がきらめくばかりだ。描かれているのはホワイトだけ。ほかの色彩は文字通りの網膜現象として、見る者の眼のなかにだけ出現する。
画面の中央部分には眼差しを集中させる形や色がない。
だから、ホワイトの表面は上下左右の画面のエッジに広がっていく。四辺のエッジではグレーの下地がわずかに見える。ムラムラした不規則なホワイトのフィールドのエッジと、それとは異質な画面の規則的な直線の縁。二つが接近と反発でせめぎ合う。
せめぎ合いによって、画面の縁はキャンヴァスという「物体」の縁ではなく、ホワイトのフィールドに拮抗する「絵画」としての形になっている。
マーク・ロスコやロバート・ライマンの絵画と比較すればわかりやすい。
キャンヴァスという矩形の表面は、一方で、ホワイトが描かれることで、ホワイトとは違う色彩をうみだす。ホワイトそれ自体であることで、それ自体の状態からそれ自体とは異なる色彩の状態に変貌する。
もう一方では、矩形の縁は、描かれたホワイトと絡み合って、絵画としての形になる。「物」が「絵」に変身する。
山田正亮は、絵画を、作者の抒情的的反応の道具や、感情移入の奴隷にすることを拒絶する。作者から突き放し距離をおいて、絵画の中から自発的に現れてくるものをとらえようとした。「自己表現の絵画」を拒否して、「客体としての絵画」を掘り起こしたということになる。
あるいは、こんな言い方もできるかもしれない。山田は、絵画という子どもに親(作者)のエゴをおしつけたり、過干渉したりせずに、その子なりの、そして、その子にしかできないオンリーワンの能力を自分で発揮できるように育てようとした。絵画自体の自発的な表現を育む。それが絵画の自律性だ。山田正亮はそう確信していた。
別なポジションから見てみると、これは、突き放しの放任主義ともいえる。だから、絵画は自然の「物」の状態、すなわち「客体」に近づく。生れたままの状態を大切にしながら育んだのだ。その結果、作者の表現性(言いたいこと)は後退して、絵画自体の発言力が増したのである。
こうした事態をアメリカの1960年代のミニマル・アートの作品に見いだしたアメリカの評論家マイケル・フリードは、ミニマル・アートをリテラリスト(文字通りの)・アートと名づけて、それの特徴は「劇場性theatricality」だと指摘したのだった。「劇場性theatricality」とは、普遍的な表現をもたない芸術がもたらす効果だと断罪した。もう半世紀前の出来事だ。そこでは、作品の自律性は逆に失われていく。
フリードが、ここから、「theatricality」に対立する概念としての「没入absorption」を駆使して、ギュスターフ・クールベなどの絵画を読み解いたのはよく知られている。
「Work C-273」制作で、山田が自らに課した課題はこうだったのだと思う。
課題=与えられた矩形の平面に、絵の具で描いて、平面が持っている自発的な表現性を引きだして絵画にする。
課題制作の条件=形体と色彩をエコノミーにしたミニマリストな方法を使う。
到達目標=Less is more。見る者の想像力に応じてイメージ豊かな「劇場」になるような絵画。
(はやみ たかし)
*このテキストは次の展覧会から取材しました。
「endless
山田正亮の絵画展」東京国立近代美術館美術館 2016年12月6日〜2017年2月12日
*早見堯の評論は次の雑誌でも読むことができます。
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