「見ることの誘惑」第四十四回
<感覚が研ぎ澄まされると、体が目覚める>
高木修 「Untitled」 2008年 鉄、エキスパンドメタル 60×165×86cm
高木修 「Untitled」2008年
上下に二つ断続した隙間をもった楕円形。そこに千鳥状の斜め格子のエキスパンドメタルが三枚「そっと」挿入されている。一つは隙間に架け渡され、もう一つは楕円形の内部に斜めに立てかけられ、三つ目は楕円の外側の床で楕円に沿いながらずれている。
楕円は変幻自在な形だ。見る位置でさまざまに変化する。というよりも、形や物は見る位置で多数多様に変化するのだとあらためて気づかされる。
わたしが立っているのと同じ床に置かれたこの「Untitled」の前では、わたしのまなざしは当然のように、楕円に沿ってゆるやかに動いていく。隙間を通り抜け、架け渡された網目を透過する。まなざしが跳ね返されることはない。
つねに、すでに、ゆるやかにまなざしは受け入れられる。
なんだか不思議なことに、パブロ・ピカソのロープが額縁替わりに巻かれた楕円形の絵画で、籐椅子状に編まれた壁紙が挿入されている「籐椅子のある静物」 (1912年)をふと想いおこしてしまった。
ピカソのこの楕円形で見立てられたテーブルは、本来は円だが、それを斜めから見たところだとか、本来こういう楕円のテーブルだとかと、いろいろ想像することが許される。
だが、「本来」の、すなわち物理的な実在の形を知ることはできない。いま、ここに現れている、いかにも仮象(イリュージョン)といった趣のこの楕円だけが見えているものなのだから。
仮象(イリュージョン)の楕円を、物のロープ(シニフィアン)が「絵画」の慣習的な機能としての額縁(シニフィエ)に変貌させ、実際の物である籐模様の壁紙(シニフィアン)が楕円形のテーブルに立てかけられた籐椅子(シニフィエ)として、テーブルを横切っているかのようだ。
実在と虚構という二項対立のないヴァーチャルな経験、オリジナルのないコピーということになるのだろうか。
パブロ・ピカソ 「籐椅子のある静物」 1912年
楕円はわたし自身が動くことを促す。位置を変えると、あらたな形と光景が開けてくる。「ここ」と「むこう」、「こちら」と「あちら」は、発話者によって指示対象が変化する「わたし」と「あなた」の言葉のシフターのように入れ替わり、しかも交差する。
アラン・レネの映画「去年マリエンバードで」(1961年)*注で、複数の人物の記憶が交差したりしなかったりするのを想いださせないだろうか。唯一の事実や普遍的な物はありえない。
「うつつ(現実)」とは異なる、その都度その都度生成される「夢や幻」だけが感覚的な強度をもっているのだ。
この「わたし」と、この「わたし」の前にいる「おまえ」。間主観的な体験としては、「おまえ」の前にいる「御前」としてのこの「わたし」。
いずれにしても、日本人の主体の感覚は場所の、すなわち位置関係の感覚だという意味のことを述べたのは吉田健一だった。
「Untitled」では、金属材料の物としての実在感は極度に希薄になり、「わたし」がまなざす視野が強度を高めて現れてくる。わたしの感覚が鋭くなっていることがわかる。
目の中でいろいろなビジュアルがパノラマのように展開される。ビジュアルが生成消滅を繰り返す目は、わたし自身の体だ。ビジュアルは「わたし」が「ここ」にいることによってつくられる。わたし自身の体に無自覚でいることはできない。
この「Untitled」は、別の場所においても成立するが、別の場所に置かれると、栃木県立美術館の会場に置かれているときとは異なる光景となって現れれてくる。ある特定の場所でしか成り立たないというのではなくて、ある特定の場所を、「いま、ここ」の特別な場に変貌させるのだ。
カール・アンドレの彫刻の分類にしたがえば「場」の彫刻といえるような、高木修の、こうした「いま、ここ」のサイトスペシックな作品の性質が「特異な空間」が意味している一部分であることは確かだ。
栃木県立美術館の変化に富んだ場がとてもうまく使われていた。場を特別な空間にする繊細なセンスと表現力を感じないわけにはいかない。
つい最近のことだが、東京、初台、オペラシティの中庭、ポプラの葉叢が風に揺れている光景に出会った。ありふれた光景だ。
葉は微風で翻り、鏡か水面かと見紛うような光が反射する葉裏を見せる。重なり合った葉の間からボロフスキーの「チャタリングマン」の、金属の表面に反射した光がキラキラざわめいている。束の間の光景は次々と移り変わっていく。
・・・、世界は、なんて、光に満ちあふれれているのだろう・・・、とかと、思ったかもしれない。
シスレーやモネが経験して、絵画で「現実化」したエフェメラ(束の間)のキラキラ感を見せる葉叢やさざ波の川面は、オペラシティでのわたしのポプラ体験に似ているのではないだろうか。
わたしが、いま、こうして、ここにいて現れてくる光景。それは、わたしの目、すなわち体の内部に出現する出来事なのだ。わたしの体が在るからもたらされるのだ。
ジョナサン・クレーリーの「近代化する視覚」で引用されていた「生産する身体」とは、このことだったのだろうか。
そう思いながら高木修展の展示会場を巡って、自分自身の体への意識が高まってくると、この「Untitled」はスケールの点からも、人体が床に横たわったり、立ち上がろうとしていたり、あるいは腕や脚を動かしているのではと錯覚しそうになる。
内触覚的な身体感覚さえ刺激するのである。
ミニマル・アート系のロバート・モリスやリチャード・セラ、そして「もの派」系の菅木志雄などとは異質なテイストの経験だということを確認しておくことはとても重要だ。
(はやみ たかし)
*注 記憶に深く残されてしまった不思議な映画「去年マリエンバードで」をモチーフにして、映画にでた女優デルフィーヌ・セイリッグ、エルズワース・ケリーとアメリカの1950年代に青春だったアーティストなどをめぐるエッセイをかつて書いたことがある。