2014年3月8日土曜日

風に包まれ、水に沈むー児玉靖枝「わたつみ十一」

「見ることの誘惑」第二十八回

児玉靖枝「わたつみ十一」
2010年 油彩 キャンバス 112×162cm

風に包まれ、水に沈む


 児玉靖枝「わたつみ十一」
                  2010年 油彩 キャンバス 112×162cm


児玉靖枝の「ambient light-goldfish」を横浜で見たのは、もう10年前のことだ。
大きく深くたゆたう水面と、輝きと翳りを帯びた金魚。
こんなにも美しい水と金魚に比較できるのは、マティスの「アトリエ、金魚鉢」以外にはないだろう、と、そのとき思った。

「アトリエ、金魚鉢」での深いブルーの水とルージュの金魚。
それは金魚鉢から溢れだして、金魚鉢が置かれているパリのサン・ミシェル河岸にあるマティスのアトリエや、窓の外のセーヌ河やサン・ミシェル橋、シテ島にまで染みわたっている。
画面全体に深くたたえられた水と、いたるところでひらひらと輝く金魚。
絵の前に立っているわたしを金魚に変容させて、静かに盛り上がってくる水がわたしを包みこんでしまう気がした。

「ambient light-goldfish」の水と金魚は、わたしのなかでマティスの水と金魚に重なったのだった。
「わたつみ十一」は「ambient light-goldfish」の展開でもあるようだ。
2010年、葉山の海を眼前にしたときの経験がもとだといわれている。
損保ジャパン東郷青児美術館で開催された展覧会「クインテットー五つの星の作家たち」の会場で、3点の「わたつみ」シリーズの前にたたずんだ。
10年前に見た「ambient light-goldfish」が「わたつみ」と一緒にわたしを包みこむかのような錯覚におそわれた。

同時に、茨木のり子の、よく知られた「根府川の海」の一節が、海面の輝きのように光ったり消えたりしていた。

丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ
沖に光る波のひとひら
ああそんな輝きに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だった歳月

「根府川の海」は戦争によって青春を奪われた哀しみと、女子としてのひそやかな決意とが伝わってくる。
根府川の海と自分が置かれている社会の状況という目に見える厳しい現実を、そうだとも気づかないまま感情を高揚させていた少女。
記憶のなかで、失われたもの、見えなかったものが甦る。
それから半世紀以上経た東日本大震災の前年、同じ相模の海を根府川の対岸にあたる葉山から見た経験が、児玉靖枝が「わたつみ」を描くモチベーションになっているらしい。

「わたつみ」はフリーズ状にストロークが連ねられている。
ストロークが重ねられた画面の表面と、それらが生みだす深さや暗い輝きとが共鳴している。
深さと暗い輝きは、人の無数の記憶と声を湛えているかのようだ。
それ自体では無秩序なカオスの海は、ストロークによって秩序づけられたコスモスに変貌する。
あるいは、逆に、コスモスが解体されて混沌としたカオスに逆戻りする。
そういうカオスモスの運動を感じないわけにはいかない。
あるときには、海面を撫でる風に包まれて、記憶が海に沈みこんでいく。
別な瞬間には海から湧きおこる記憶が海面に風を生みだす。

「根府川の海」の赤いカンナは「光る波のひとひら」と共鳴して、わたしのなかで「ambient light-goldfish」の金魚に連動していく。
「光る波のひとひら」は、さらに、目の前の壁にかけられている「わたつみ」へと波紋のように広がる。

風を帯びて深く呼吸する「わたつみ」の海。
深い呼吸、息づき、鼓動する空間。
中国とそれの影響を受けた日本の絵画でめざされてきたのは「気韻生動」だ。「気韻生動」は簡単に言えば、世界の万物のエロティックな生の波動である。
児玉靖枝の「わだつみ」に限らず、「深韻ー雨」シリーズや「深韻ー風の棲処(銀杏)二十六」などを特徴づけている雰囲気は、それにとても近くはないだろうか。


「深韻ー雨二」 2010年

                     「深韻ー風の棲処(銀杏)二十六」  2012年



「わたつみ」の前で、わたし自身が「光る波のひとひら」や「赤いカンナ」、そして金魚になってしまうかのようにも感じられた。
現実の世界で、水は人を包みこむ。
「わたつみ」からあふれる深い陰翳を帯びた色彩の光は、わたしがそこに一人で立っていることを確信させる。
同時に、わたしを包みこんで、世界の果てまでわたしの体がつながっていく気持ちにさせる。
高揚した感情的な経験だと思う。
空を見あげたときの気分の高揚にも、どこか、似ている。

(はやみ たかし)

※次の展覧会から取材しました。


「クインテットー五つの星の作家たち」展 損保ジャパン東郷青児美術館 2014年1月11日~2月16日

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