2013年7月11日木曜日

見ることの誘惑 第二十四回 アンドレアス・グルスキー「スキポール空港」


アンドレアス・グルスキー「スキポール空港」


バロックの海、海のバロック


          
          アンドレアス・グルスキー「スキポール空港」
           インクジェットプリント 61.5×76.4cm  1994 

グルスキーの写真は見たとたんに、遠隔視的な全体と近接視的な細部との伸縮感に圧倒されてしまう。ズームアップとズームバックが同時におこっている。
画面全体は繰り返しや均等な分割によって静謐にまとめられている。それに対する細部での肉感的で物質的な過剰なざわめき。軽い目まいにおそわれる。

繰り返しや均等な分割は、全体をまとめる構成法や統辞法としてみたら、新しさの終わりとしての新しさ、つまりコロンブスの卵である。美術ではモダニズムの究極としてのミニマリズムがそうだった。
グリスキーの写真は、規則的で無機質なアンチ物語のミニマリズムの文法を使って全体を規定し、細部に視線を集中させたときには、ポストモダン風な過剰な物語の現前に立ち会わされてしまう。沈黙のつぶやき、といってみたくなる。

左右が5メートルを越える写真もあるなかで「スキポール空港」はかなり小さい方だ。
グリスキーの写真はデジタル処理がほどこされているとのことだ。遠隔視的な全体と近接視的な細部とのコントラストが強すぎるとデジタル処理の過剰さを感じてしまう。そうすると、写真を見ているリアルな経験がヴァーチャルな幻想に変貌していく。経験の質が違ってくるということだ。

「スキポール空港」はこうしたことを感じさせない透明感が満ちあふれている。写真の空間も制作方法も透明だ。
アムステルダムのスキポール空港のいくつかあるラウンドウェフの一つの端から滑走路を撮影したのだろう。
平坦な内部のグリッド状の床、外部もそれを継承展開して平坦に広がっている。
内部は左から右側に向かって斜めに奥まっていく。外部の芝生や滑走路、さらに遠くの風景も同じように右側に収斂していく。
その端に飛行機の尾翼がとらえられている。左から右への動きの感じがかすかに強められる。
空には青空を覆うかのように白い雲と灰色の雲が広がる。白い雲は手前のラウンドウェフの床の傾斜に平行している。灰色の雲は上の屋根の傾斜に平行しているように見える。

この雲には既視感がある。
オランダ17世紀の画家ヤーコブ・ファン・ロイスダールだ。「漂白場のあるハールレムの風景」を想いおこさないだろうか。
「漂白場のあるハールレムの風景」の画面右半分、地平線のすぐ上の雲二つ。地平線に近い左下がりの雲と、その上の右下がりの雲。「スキポール空港」の白と灰色の雲に重なりあってしまう。
もしこう言ってよければ、空港の天井はロイスダールの一番上の雲と比べることができる。
と言い始めると、ロイスダールの左右に細長い菱形の漂白場はラウンドウエフ室内の手前に続くことを予想させる床に類比することも可能だ。
ロイスダールでは、平坦に広がる大地の手前では麻の漂白作業をする人々がとらえられている。その向こうにはいくつもの風車、教会と街の家並が連ねられている。透明感のある広大な視野と、微細な細部に息づく肉感的な人の営み。筋のない物語が編みだされてくる。

              ヤーコブ・ファン・ロイスダール
                 「漂白場のあるハールレムの風景」

「スキポール空港」をもっと見てみよう。
ガラスに内部の光景が断片的に映り込んでいることに気がつく。外で水平の流れをつくっている風景に重なって、白と灰色の薄い垂直の面が、大地と空、室内と室外とをつなぎとめているかのようだ。
それに気づくと、室内と室外に空気が漂い始める。
遠くの木立や台形に盛られた土。煙突のある建物、そして地平線上に散在する微細な垂直の事物の影が連続しながら、右端の飛行機にまでつながって、声にならない声で物語をつぶやいているのではないかという気がしてくる。

グルスキーの写真での全体と細部、ズームアップとズームバックとが同時に起こっているような感じ。言い換えると「図」と「地」の同時性ということだ。
こうした部分に分割できない「全体性」は、わたしたちに抽象表現主義の絵画やカラーフィールドペインティングを想起させるのではないだろうか。
実際、たとえば、グルスキーの「南極」を見たときの経験は、クリフォード・スティルの「図」と「地」が同時に現れるのを見ながら、それとは異質な圧倒的な一つの形(図)の現前に立ち会っている経験と酷似していた。

全体を規定する規則的で無機質なミニマリズムの文法と、細部にポストモダン風な物語に焦点を当てると過去の違うアートシーンが想起される。
全体の画面の平面性や物質性を強調して、細部の色や形のイリュージョンを空間の廃墟ともいえるような平面的で物質的な画面に宙づりにしたアンゼルム・キーファーやデイヴィッド・サーレ、ジュリアン・シュナーベルなどの1980年代の新表現主義系の絵画だ。

もっと一般化することもできる。全体の幾何学的な枠組みと有機的な形象。
アルフォンス・ミュシャの縦長ポスターでの幾何学的なビザンチン風枠組みと有機的形象。あるいは源氏物語絵巻での、吹抜き屋台という全体の幾何学的枠組みの中で右往左往する細部の人物達。

ここまで言うと、言い過ぎだと思う。別な言い方で穴埋めをしておかなくてはならない。
グルスキーの写真は海を見ているときの経験に似ている。心が晴れ晴れとして気が大きくなる。同時に、エウヘーニオ・ドールスに「バロックは海である」と言わせた海の「バロック性」。
グルスキーの写真は、筋をもたない、つまり、「いま、ここ」の物語がざわめいている。
(はやみ たかし)

※国立新美術館「アンドレアス・グルスキー展」(201373日〜916日)から取材しました。

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