「樹を見上げてⅦ」
東京日比谷の松本楼のロビーで日高理恵子の「樹を見上げて」(リトグラフ)2点を目にした。1月の終わり、日比谷公園の木々のあいだを風が吹き抜け、残った晩秋の枯葉が舞っていた夕暮れ時。懐かしい友人に久しぶりに会った気分だった。 1993年 紙本 彩色 220×600cm 東京国立近代美術館
東京国立近代美術館で「樹を見上げてⅦ」を見たのは、それよりも少し前だった。
日高理恵子は長年、樹を見上げて幹や枝を描き続けている。緑の葉が茂る春の樹が描かれているのを見たこともあるが雰囲気がずいぶん違っていた。大半は葉や花のない樹の幹と枝だけが描かれている。無限の空と、それとは正反対の近接視の樹とが描かれているといってもいいだろう。
「樹を見上げて」は通常の風景画と違っている。
地面に平行して視線を投げかけて見通す、深まり遠ざかっていく風景では、「わたし」が能動的に風景を見ているという実感がある。「わたし」が、今、ここにいて、木々や道や建物は「わたし」からある距離をもって存在していることがわかるからだ。
けれども、焦点を定めることのできない無限の空を見上げると、空を見ているというよりも、空、もっと直接的な感じでは空気に包まれているという受動的な気分に陥るのではないだろうか。そうした状態で描かれた無限の空と手にとれるかのように感じられる樹は、「地」と「図」とか背景と前景というような関係でとらえることはできない。
絵画に近づいて見たときの、決然と、空や空気を切り裂くしなやかなのに力動感あふれるドゥローイングには驚嘆するばかりだ。
画面上方右隅から画面左下隅に向かって対角線状に伸びるかに思われた太い幹は、枝を広げながら画面左縁に沿って上方にぐっと湾曲する。それを受けてもう一本の幹から伸びた枝が画面上縁に沿って弧を描いて最初の幹に交差する。交差した枝の勢いはそのまま画面右下隅に向かって枝と枝とがつくった空洞を駆け抜けていく。右側の半円が開いた横に倒した8型あるいは∞(無限)型が枝と空虚な空とで形成されている。
そう見えたとき、無限遠の空は降り注ぐ光になってわたしを包みこんでしまう。枝という枝はざわめいて風を吹かせる。
生き物のように増殖したり減少したりするように見える枝は、同時に、拡大したり縮小したりしながらわたしの体を持ちあげ、宙吊りにしてしまう。
けれども、ざわめいて、増殖と減少を繰り返しているのは樹の枝ではなくて、陽炎や蜃気楼の場合のように空気がたわみ、波打っているからかも知れない。
わたしのささやかな呼吸も膨らみ縮む空気となって無限の空に連なっているに違いない。有限でちっぽけなわたしの体のなかに空が浸透してわたしを包み、わたしと空とが一つになってしまうような気分になる。
この「樹を見上げて」を見ていると、視野が左右で伸縮する身体的な経験では川村記念美術館にあるバーネット・ニューマンの「アンナの光」と比較したくなる。肥痩さまざまな線がわたしの視野のなかで手前と奥、上下左右の揺れ動きながらイメージを形成したり壊したりしていく様子からは,、デュッセルドルフのノルトラインウエストファレン美術館でジャクソン・ポロックの「32番」(1950年)を見たときの経験を想いだす。
けれども、それ以上に、薬師寺東塔水煙で空気を漂わせる天女や、イタリアのパドヴァの礼拝堂壁画に描かれたイエスの死を嘆き悲しんで空気に沈むジオットーの天使などに思いを馳せたくなるのはどうしてなのだろうか。
気持ちを高揚させ身体を上昇させる、めくるめく浮遊感を感じさせられてしまうからなのかもしれない。
そこでの主役は幹や枝よりも、空間という言葉ではあまりにもよそよそしくなってしまうので、とらえどころのない無限でありながら、わたしを包みこんでいる空気そのものだというのがふさわしい。
そこでの主役は幹や枝よりも、空間という言葉ではあまりにもよそよそしくなってしまうので、とらえどころのない無限でありながら、わたしを包みこんでいる空気そのものだというのがふさわしい。
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