2011年9月14日水曜日

アレゴリー・カルテットー「ヨコハマトリエンナーレ2011」から

<ダミアン・ハースト「知識の木」、マッシモ・バルトリーニ「オルガン」、チョン・ジュンホ「弥勒菩薩半跏思惟像」、横浜美術館コレクションのコプト織裂>




116日まで開催中の「ヨコハマトリエンナーレ2011」は、参加作家のエネルギーとディレクターの冷静なキュレーションとのバランスがすばらしい。一つ一つの作品を越えたクリエイティヴィティが生まれていた。
そのなかから一つ、横浜美術館のドーム型の天井をもった円形の展示室をとりあげてみたい。
ダミアン・ハースト「知識の木」、マッシモ・バルトリーニ「オルガン」、チョン・ジュンホ「弥勒菩薩半跏思惟像」、それに横浜美術館コレクションのコプト織裂が展示されている。

「クール」イギリスを代表するダミアン・ハーストは2点の円形カンヴァスと1点の尖頭アーチのカンヴァス。一見してステンドグラスの窓だと思ってしまう。特に尖頭アーチ型のカンヴァスはゴシックの聖堂のステンドグラス窓に見える。
近づいて見ると、羽を広げた状態で蝶がびっしり貼りつけられているので驚く。光をしみこませて聖なるイメージ、とりわけキリスト教の殉教にまつわる「死=聖性」を出現させる聖堂のステンドグラスが標本状態にされた蝶の死体と重なる。ステンドグラスと蝶は言葉の「語呂あわせ」のように重なりあう。
蝶は物語的な想像力をひきおこさせるのではない。蝶はそのまま水平に横にずれ、蝶のままでステンドグラスになる。物質的な想像力といってみたい。

これと似た経験はハーストの展示壁面のすぐ右のマッシモ・バルトリーニ「オルガン」でもおこる。工事現場の足場に使われる鉄パイプが組み上げられて、そのなかで轟々とオルガンの音がドーム状の展示室に鳴り響いている。鉄パイプとオルガン。文字通りの語呂あわせで「パイプオルガン」。その場所で、クロス型に建築されたキリスト教聖堂の中央、ひときわ高いドーム天井に向かってパイプオルガンの音と共に身体が上昇していくかのような幻覚にとらえられたのはわたしだけだろうか。
「オルガン」はハーストの「蝶=ステンドグラス」と相乗された経験になる。

「オルガン」から振り返ると展示室の二つの出入り口に挟まれた壁の前に、チョン・ジュンホ「弥勒菩薩半跏思惟像」とコレクションのコプト織裂が目に入る。
骸骨になってしまったチョン・ジュンホの弥勒菩薩。仏教が伝えている567千万年修行を積んだ果てに悟りをえるはずの思惟する弥勒菩薩は悟りきれないわたしたちに近い修行者だ。死んでもなお思惟することを通して修行することをやめない。死と生の断絶よりも連続を感じさせないだろうか。ここでは死と生とが弥勒菩薩において重なりあっているといってもいいだろう。

コプト織裂がもたらす経験も似ている。キリスト教黎明期のエジプトのキリスト教徒が死者のために綴ったコプト織裂。織られているのは羊飼い(イエス)や無限の繰り返し(聖性)を思わせる図像だ。そうした図像の物語的な連想作用はそれほど重要ではない。今、現在も朽ちて続けている物質としての織裂を侵食して非物質へと変貌させようとしている時間の力を感じることの方が重要だ。「物質=存在していること」と「非物質=非在であること」とが、本来ありえない語呂あわせとなって重なっている。

見事にキュレーションされた円形展示室では、4種類の作品が、それぞれに物質的想像力を喚起させる。同時に、4種類が重なりあってこの場所でしか成り立たないサイト・スペシフィックなカルテットを演奏している。このカルテットは「水平的アレゴリー(寓意)」だといってみたい(ハル・フォスターやグレゴリー・L・ウルマーを参照)。
蝶とステンドグラス、鉄パイプとオルガン、弥勒菩薩の死と生、コプト織裂の物質と非物質。モチーフがそのままで、横に水平にずれて、もう一つのイメージとダブルのだ。たとえばイソップ物語にみられる当のモチーフやテクストをダミーにして教訓を指示するような喩えとしてのアレゴリーなのではない。

「水平的アレゴリー」はほかにも見られる。横浜美術館のこの展示室は普段はミロやダリ、エルンスト、デルボーらのシュルレアリスム系の展示室だった。美術館という「場所の記憶」に蝶のいる草原、鉄パイプの工事現場、弥勒菩薩の寺院、コプト織裂の墓なども重なってくる。こうした「水平的アレゴリー」はアプロプリエイションといってもいいのかもしれない。

わたしにはこの「水平的アレゴリー」自体に、さらに、もう一つ別の方法が重なりあって見えてくる。モダニズムの一つの頂点を示していたのはミニマリズムとコンセプチュアリズム。そこでのきわだった方法はトートロジー(類義反復)とセルフレファレンス(自己参照)だった。ここでのポスト・モダニズム風な「水平的アレゴリー」はモダニズムのトートロジーやセルフレファレンスのリサイクルなのではないか。

そうすると、ハーストらのYBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)は1950年代のリチャード・ハミルトンらイギリス・ポップ・アートのリサイクルかも・・・。では、日本の「クール・ジャパン」はなにのリサイクルだったのだろうか。わたしのささやかな脳内クリエイティブ空間に多数多様なシミュラクルが合わせ鏡の像となって、蝶のように乱舞し、パイプオルガンの音楽のように共鳴し始める。弥勒菩薩の思惟も同じようなものだろう。

2011年8月29日月曜日

「見る」ことのシーソーゲーム 高松次郎「日本語の文字」


高松次郎「日本語の文字」
1970年 オフセット 紙 61.6×25.4cm 東京国立近代美術館

  
「日本語の文字」は、わたしの勝手な推測だが、タイプライターで打ち込んだ文字か、それとも活字を組んで印刷した文字をオフセットで印刷したのだろう。2年後のアルファベット文字を組み合わせて繰り返した「THE STORY」ではゼロックスコピーが使われている。「日本語の文字」でもオフセットで印刷する前に拡大コピーのプロセスがあったに違いない。

オフセットといっても、いわゆる当時の軽オフセット(?)だからなのか、あるいは印刷する前に何度も拡大コピーを繰り返したせいなのか、文字の輪郭がかすれて不規則になっている。紙のいたるところにインクの染みもある。じっくり見たのは3年前の「わたしいまめまいしたわ」展(東京国立近代美術館)だ。

インクの染みは視覚的な芸術性、いいかえると視覚的アクセントだとはわたしには思われない。むしろ、「この七つの文字」という印刷文字が指示する「この七つの文字」という意味内容を脱臼させ、空虚にさせている原因のように思われる。

「この七つの文字」だけに注目し「ことば」や「文」などの記号として理解すると、印刷文字「この七つの文字」は意味内容「この七つの文字」を指し示している自己言及、あるいは類語反復(トートロジー)だということになる。
「指し示すものと指し示されるものが同一であることによって生じる循環が、人に、合わせ鏡の無限廊下に立ったときのような目眩を覚えさせる」(三浦雅士「高松次郎の現在」展図録、1996年)。

なるほど。でも、わたしはそう思わない。「ことば」や「文」の意味は文脈の効果にしかすぎないことを忘れてはならない。「日本語の文字」は版画であり、美術という文脈でプレゼンテーションされている。哲学的アフォリズムでもなければ、文学的な言語表現でもない。白紙にただ「この七つの文字」が置かれているだけではないからだ。

文字の輪郭のかすれや不規則なぎざぎざ、繰り返されるコピーのプロセスを経たので小さな汚れが徐々に鮮明になった染み(1970年前後のありふれた手法だ)などの視覚にさしだされているもの。こうした印刷のインクの痕跡、それらの色と形こそが、色と形という記号性が故意に薄められていようとも、この版画作品で注目すべきところだ。

そこに注目すると、インクの痕跡は痕跡がつけられている紙とともに、わたしの眼前に迫りだしてくる。「この七つの文字」の意味は脱臼され空虚になりながら遠のいていく。次の瞬間には意味が近づき痕跡と紙が遠のく。「目眩」を覚えるのはこの二つの作用の繰り返しが原因なのだ。意味と痕跡、もしこういってよければ記号性と物質性とのズームレンズのようなシーソーゲーム。

夏目漱石の「坊ちゃん」で文字のインクの濃度やかすれ、染みに注目していてはマドンナの美貌は想像できない。小説で文字の視覚的な物質性に着目したのはル・クレジオぐらいだろうか。
美術作品を見るということは、実は、さきほどの「見る」ことのシーソーゲームに目眩しながら自分の意識や考えを革新していくことなのだ。

「この七つの文字」から、1980年代初め、銀座の鎌倉画廊で見たジョセフ・コスースのネオン管による「five words in five colors」をわたしは想いおこす。当然のことだ。けれども、「日本語の文字」はコスースのコンセプチュアル・アートのように「わかる」ことを問題にするために、「見えている」視覚的内容のテーストを名ばかりのもにしてはいない。

高松次郎の意味と痕跡、記号性と物質性との危うい葛藤。拡張して考えると、美術作品での空間的イリュージョンと物質的な材料、絵画での描かれた表面と描かれるべき表面(支持体)、そして、それらの淵源にある「図」と「地」との関係などといった、現代美術を貫いてきたメイン・テーマにつながっているのである。

 早見堯

2011年7月12日火曜日

第6回 岡本太郎「空間」 1934年/1954年再制作

ポールは翻る旗を支えられるのか

                               岡本太郎「空間」 1934年/1954年再制作 
                               油彩・キャンバス 114.3×91cm 川崎市岡本太郎美術館

布状の不規則な形態と棒状の直線的な形態とが左右に並置されている。布状の形態は左上から右下へ向かう動きと左下から右上へ向かう動きと、相反する動きを感じさせる。
棒状の形態は上部を基点にして右から左に振れているのだろうか。それとも下部を基点に左から右に振れているのか。単純なので両義的だ。

左側では平面的なかたちが不規則にカットされ、グラデーションを施され裏が見えているだけで蠢く布状の有機的な生命体になっている。右側には幾何学的な直線が具体的な実在の棒に変貌している。
布状形態も棒状形態も、どちらともとれる両義的な動きと、抽象的で幾何学的な形態と生命的だったり実在的だったりする具体的な形象との間でゆれている。

今年、東京国立近代美術館「岡本太郎展」で「空間」を見たとき、わたしは自宅の近所にある武者小路実篤記念館に飾られている絵を想いおこしていた。
実篤の筆による南瓜(かぼちゃ)と胡瓜(きゅうり)の絵だ。「仲良き事は美しき哉」との添え書きもある。球状の南瓜と棒状の胡瓜。太郎の布状生命体と棒状実在体に似ていないだろうか。南瓜と胡瓜、布と棒は、そう思われがちなように、互いに異質な、もしこういってよければ、岡本太郎風「対極」的なものなのだろうか。そうではない。位相変換としてとらえると両方とも同じ「構造」体だ。見かけは異なっていても実は同じ。太郎も実篤も同じことを考えていたのだと思う。

唐突ながら、シュルレアリスムのキャッチ・コピー「手術台のミシンとこうもり傘」も実は異質どころか、尖っているところなど似すぎている。
太郎が10年に渡るパリ滞在中に描いたほとんど最初の優れた絵画だからといって、後年、太郎が唱えた「対極主義」に通じるものがあるなどと先入観で見るべきではない。

布状の形態は日本の伝統的な「筆意」を通した形の生成を感じさせる。それが、当時、パリで流行していたハンス・アルプなどのバイオモーフィック・フォーム(生物学的形態)に近似しただけなのではないのか。実際、太郎は60年代以後、書道的運筆の「筆意」による絵画に向かった。北大路魯山人が弟子入りした「版下書きの名手」で町書家の岡本可亭が太郎の祖父だったことを、しかし、今、想いだすべきではない。
ただ、見落とすべきでないのは、これら二つの布状と棒状の形態の「形象性」以上に、暗く塗りこめられた背景が、これらの「形象」によって平面的なのに無限の空間だと感じさせられることだ。だからタイトルが「空間」なのだろう。

さらに、棒状形態は「形態性」よりも画面を斜めに方向づける「構成性」として注目すべきだ。斜めであることで、布状の形態の不規則で不安定な動きに半ば拍車をかけ、それを半ば抑制している。翻る旗を支えるポールとして機能しているのである。
右上から左下に向かう対角線状の構成法と、その対角線を機軸にしてそれに反発したり貫入したりする「筆意」から生まれてくる形象の配置。太郎のほとんどすべての絵画の基本だ。「空間」から確実に見えてくるのは、太郎の絵画を太郎の絵画にさせている形態を形象に変貌させる「筆意」と、ダイナミックな動きをもたらす「対角線状の構成法」である。

「空間」を時計方向に90度回転させると、シュルレアリスムのイデオローグ、アンドレ・ブルトンをも魅惑した「傷ましき腕」(1936年/1949年再制作)に位相変換される。・・・、あなたは納得できるだろうか。
わたしには、「空間」は、秀作の誉れ高い「重工業」(1949年)や「森の掟」(1950年)、それを展開した「燃える人」(1955年)、そして巨大な「明日の神話」(1968年)など太郎の大半の作品に二重像となって現れてくる。

2011年6月14日火曜日

生きられる場所ーフィンセント・ファン・ゴッホ「ドービニーの庭」

第五回 フィンセント・ファン・ゴッホ「ドービニーの庭」


           1890年 油彩、カンヴァス 53×104cm 財団法人 ひろしま美術館

生きられる場所
  
パリから50kmほど離れたオワーズ川のオーヴェールでゴッホはガシュ医師に出会う。死ぬ2ヶ月前の18905月のことだ。妻を亡くしたガシェやその娘の肖像画を描く。
彼らは、「なんの下心もなく、芸術のための芸術を愛し、自分の全知性を傾けて仕事に協力してくれる」(ゴッホ書簡638)。

ゴッホが敬愛してやまない今は亡き画家ドービニーの夫人も「近代建築」の館と美しい庭と共にオーヴェールに健在だった。死の前、束の間の安堵をえたのだろうか。

ゴッホ特有の(ムンクもそうだが)有角視透視風の短縮遠近法とそれとは異質な正面視の面との組み合わせが、ドービニーゆずりの横長画面に展開されている。
画面中央下部のバラの花壇や右側の塀や柵、リラ、菩提樹などは斜めに後退していく。
逆に、画面左側下部の白味の強い切り株につながる明るい緑の樹木と、それに重なる暗い緑の樹木は画面に平行した正面視の面になって上部の館につながる。
館の前の暗い緑の菩提樹とそれを間に挟んだ二本の明るい緑の菩提樹は、二つの対抗する空間を融和させている点でこの絵画の象徴的な部分だ。

画面右下から左上に向かって後退するかに思われる空間は館や左の重なる樹木とともにぐっと手前に引きだされる。アトリエ舟で川に包まれながら川岸の光景を描いたドービニーのように、前進してくるドービニーの館と庭の「内部に」ゴッホ自身が包まれているのかもしれない。
館の前の明るい緑の菩提樹に重なっているドービニー夫人とゴッホとが対面するのもこの前進してくる庭の空間の内部でなのだ。

夫人のそばにある「不在」の三つの椅子。12年前に亡くなった画家ドービニーと夫人、そしてゴッホが座るのだろうか。「生きられる場所」、とゴッホは感じたに違いない。
有角視透視で遠のく現実と、正面視で前進してくる死も生もおし包んだ「生きられる場所」。

14年後、詩人ライナ・マリア・リルケの分身マルテは「僕を入れてくれる屋根はどこにもない」とパリで嘆く(「マルテの手記」)。
うつ病か不定愁訴といった雰囲気のマルテは、生の気配が失われた診療所を「ついに僕は、僕の人生のなかで、腰をおろすべき場所に来てしまった」と感じたりもする。

束の間のやすらぎをえたはずのゴッホは、しかし、この絵を描いてた45日後、「そうだ、自分の仕事のために僕は、命を投げ出し、理性を半ば失ってしまい・・・」と記さなければならなかった。診療所のマルテと同じ気分だ。ゴッホはその日に自殺する。

妥協しない自分の「美的趣味(エステート)」を貫いて自由意志で生きる芸術家は典型的な「近代人」、高等遊民だ。

ゴッホよりも少し後に、夏目漱石が「それから」や「三四郎」、「明暗」などで描き出したのも、こうした「近代人」の「病」だったに違いない。
わたしたちは、こうした「病」から自由でいることは、今、可能だろうか。

2011年3月18日金曜日

「見ることの誘惑」番外編 クリエイティブの力−「わたし」は「つながり」のなかにいる

無縁社会は人と人との「つながり」が失われた社会だ。各地域をつないで地球をひとつにするグローバリゼーションが拡張している。平行して、コミュニティ(集まり、共同体)が壊れ、「つながり」をもたない孤立した「ひとり」が広がっていく。「つながり」を取り戻すことが日本の社会に活力を与えなおすことになると考えられている。
クリエイティブ(創造すること、創造されたもの)にかかわるわたしたちは、どうしたら「つながり」が成り立つのかとか、「つながり」のあるコミュニティを再興するにはどうすればよいのかを、クリエイティブを通して考えてみよう。
 *
日本人は個人という人格よりも、匿名的な場所で自分や相手を指し示してきた、と指摘したのは吉田健一だっただろうか。「おまえ」はもともとは「あなた」のことではなく、「あなた」の「御前」の場所にいる「わたし」のことを意味していたようだ。「こっち」と「そっち」も典型的な場所意識のあらわれだ。
そういうことばのなかできわだっているのが「ウチ」だろう。同じクラスの仲間を「ウチ」といい、自分が所属している学校を「ウチ」ともいう。「ウチ」はとうぜんその反対の「ソト」を自覚したことばだ。「ソト」に対応するには「ウチ」は閉じていなくてはならない。
「ウチ」の閉じた場所意識は7世紀後半の天武天皇時代に始まった「家」制度が原因の一つだろう。日本の古くからの農耕社会での、水田を潤す水を共有する「ムラ社会」という日本特有の集まり意識から生まれたのかどうかはわからない。西欧中世の今でも残っているドイツのローテンブルグなどは、町は城壁で囲まれた「ウチ」を形成して「ソト」に対して完全に閉じているからだ。。
ただ、わたしたちは一人で生まれてきて一人で「人間」になるわけではないことも確かだ。生まれてから死ぬまで羊のように群(ムラ)がり、寄り添って暮らす。このあたりのことは三浦雅士の「私という現象」(講談社学術文庫)を読んでおきたい。
「ムラ社会」をもとにして現在の日本社会を明快に説明しているのは広井良典「コミュニティを問いなおす」(ちくま新書)である。

戦後の日本社会とは、“農村から都市への人口大移動”の歴史といえるが、農村から都市に移った人々はカイシャや核家族という“都市の中の農村(ムラ社会)”を作っていったといえる。そこではカイシャや核家族といったものが“閉じた集団”になり、それを超えたつながりはきわめて希薄になっていった。そしてさらに、そうしたムラ社会の「単位」が個人にまでいわば“縮小”し、人と人との間の孤立感が極限まで高まっているのが現在の日本社会ではないだろうか。

無縁社会とは、自立して開かれた「おひとりさま」ではない、閉じた「ムラとしてのひとり」がばらけて散在している状態のことだ。個人のなかの閉じた「ムラ社会」が開かれなくてはならない。
 * *
奈良の東大寺法華堂(三月堂)に安置されている「不空羂索(けんさく)観音」は仏教隆盛の奈良時代の作だ。興福寺北円堂にある運慶の「無著」とならぶ日本仏教史に残る彫刻の最高傑作だとわたしは思う。羂索は五色糸で撚りあわされた綱。「不空羂索観音」は救いを求める民衆に羂索を投げかける。一網打尽のように一挙に多くの民衆と「つな(綱)がり」をつけるのだ。
「不空羂索観音」がつくられた少し前には東大寺の大仏が造営されている。大仏は聖武天皇を頂点とする国家権力による鎮護国家の象徴だった。大仏は民衆の苦しみを救うことなく、むしろより多くの災厄をもたらした。そこで東大寺の賢者良弁和上は民衆のための仏像として「不空羂索観音」をつくったのだ。羂索による「つな(綱)がり」は気休めにしかすぎないとしても、苦しむ人々に「ひとり」ではない、他者と「つながって」いるんだと実感させ、心の平安を与えたことだろう。
2011年2月初旬の今も、「不空羂索観音」は「つながり」の網を世界に投げかけている。聖武天皇がエジプトのムバラク大統領だとしたら、良弁和上はエジプトグーグルの幹部ワエル・ゴニム氏かもしれない。ネット(網)の検索(羂索)で民衆同士のつながりをつけたのだから。
 * * *
「不空羂索観音」の前にたたずむ民衆の「ひとりのこのわたし」という気持ちとは違う「ひとり」感もある。母子家庭に暮らす少女千秋(「ポプラの秋」湯本香樹実、新潮文庫)がそうだ。
千秋は亡き父を想いながらこんなことを考える。

父の沈黙のなかには決して入っていくことができないさびしさと、そのさびしさを癒してくれた父の温かみが、私のなかでは分かちがたく結びついているのだから。もしかしたら私は、父のそばで感じていたあの静かなさびしさがないことには、やさしさやぬくもりを感じることができないのではないだろうか・・・・・・

大家のおばあさんとの心の「つながり」を描いた「ポプラの秋」のここには、平易なことばで人間の本質的な孤独が表わされている。二人でいる孤独、他人と一緒にいる「ひとり」感だ。千秋はそれを嘆いているのではない。「私」が父のなかに入れない「さびしさ」、すなわち「ひとり」感があるからこそ、父の「やさしさ」が感じられ、「つながり」感があったのではないか、と千秋は自問している。
こうした気分は哲学の世界では古くから独我論として語りつがれてきた。
独我論の頂点に立つ思想家は、「語りえぬものについては沈黙するしかない」とか「言語ゲームの規則はゲームが終わった後でつくられる」などと、カリスマ的な発言で有名なウィトゲンシュタインをおいてほかにはいない。
「わたしに見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」がウィトゲンシュタインの独我論のエッセンスだ(このあたりは永井均「ウィトゲンシュタイン入門」(ちくま新書)がわかりやすい)。実例をあげてみよう。「わたしが歯が痛いのはわたしにはわかるが、他人が歯が痛いのをわたしは確認しようがない」。あたりまえだろう、とあなたは思うだろうか。わたし以外の他人の意識(感じ方や考え方)は確認できない。これがあたりまえであってはならない。
他人がなにを感じ、なにを考えているのか、正確にはわからないという気分は日常的だ。でも同時に、他人の感じや考えをわかりたい、あるいはわかると思いたいという「つながり」シンドローム的な気分もある。けれども、さらに、「自分のことって人にはわかってもらえないから・・・」とも思ったりする。独我論や、「ひとり」とか「つながり」にしろ、ムラ社会やコミュニティなどにしてもこうした気分が出発点になっている。
わたしが「ポプラの秋」の千秋に感心するのは自分の「ひとり」感が父との「つながり」の元だと気づいていることだ。
 * * * *
ウィトゲンシュタインの「わたしに見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」は、1960年代の抽象美術のチャンピオン・アーティスト、フランク・ステラのことば「あなたが見ているものが、あなたが見ているものです」のトートロジー(類語反復)に反響していることはよく知られている。実際、1960年代のミニマル・アートやコンセプチュアル・アートへのウィトゲンシュタインの影響は際立っていた。
モダニズム・アートの極北に位置するステラの独我論的なことばと鏡像のように向かいあっているのは、モダニズム・アートの始まりの印象派やポスト印象派の絵画だ。ここで、アサビの卒業・修了制作展「クリエイティブ・ガーデン」を想いおこしながら、「庭」の絵画をモチーフにして独我論や「ひとり」、「つながり」、コミュニティなどを考えてみよう。

印象派のメジャー・アーティスト、クロード・モネ「庭のカミーユと子ども」(1875年)を見てみる。パリから10キロほどセーヌ川を下ったアルジャントゥイユの自宅の庭。花壇の前のカミーユと年齢を幼くした想像上のジャン。地面に注目したい。青とピンクで補色関係の色彩が強調されている。
モネのこうした色彩は実際の地面の様子を描いているのではない。モネの目のなかに映りこんでいる様子を描いている。地面の一部が青みがかって見える。すると、それの隣の地面の部分は反対色の赤みが強まって見えてくる。モネの目のなかでコントラストの強度が高まる。モネだけが感じ、モネだけしか見ることができない色彩。地面の「存在」の様子ではなくて、地面が目のなかで再生産された「視覚」の様子を描いている。
モネにしか見えない色彩。「わたしに見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」というウィトゲンシュタインの独我論をもう一度反芻しておきたい。そういう色彩で描かれる世界は、ここでの核家族のように自分に親密な、文字通り目に入れても痛くないといったシーンになるしかない。目に入れても痛くない「わたし」だけのシーンを「わたし」だけが目に入れた色彩で描く、といってもいいだろう。したがって、他人にも同じように見えているかどうかは確認しようがない。
ポスト印象派のヴァン・ゴッホの絵画も同じようなポジションから眺めることができる。ゴッホがサン=レミに行く前に南フランスのアルルで描いた「夜のカフェテラス」(1888年)。ゴッホの下宿「黄色い家」のそばのカフェとその前の広場はゴッホにとって庭のような身近な場所だ。ゴッホ定番のリズミカルなストロークと傾いた遠近法的空間、そして傾いた左右のシーンをつなぐアーチ状の構図。地面の黄と紫青のコントラストはカフェと遠くの夜空や建物との間でも展開されている。身近な世界が文字通りに身近なゴッホ自身の目のなかで再生産されているのだ。
ゴッホという「わたし」だけに親密なシーンを、ゴッホという「わたし」だけに見える黄と紫青との補色関係のコントラストで表わしている。ゴッホの目のなかで生産された色彩だ。ある色彩を見ると、実際にはないはずの補色関係の色彩が目のなかで発生する。色彩の同時対照である。「わたし」だけの目のなかの出来事は他人にわかってもらえる保証はない。

モネもゴッホも描いているモチーフや色彩が、「わたし」にだけ見えるものという点で独我論の世界だとはいえないだろうか。実際、モダニズム・アートの始まりのモネから、モダニズム・アートの掉尾に位置するステラまで、多かれ少なかれ独我論で貫かれているといってもいい過ぎではない。
モネやゴッホの「わたし」だけの独我論的な世界、「わたし」にしか見えない独我論的な色彩を、では、同じように見た経験があるはずのないわたしがどうしてわかって、共感することができたのだろうか。
「わたしのことは他人にはわからない」、とか、「他人のことはわたしにはわからない」という「つながり」のない「さびしさ」におおわれた独我論を克服して、あらたな「つながり」やコミュニティ(集まり)を再構築する鍵はそこにある。
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3年前に東京国立近代美術館で開催された「わたし」をテーマにした展覧会「わたしいまめまいしたわ」は独我論や「ひとり」、「つながり」の問題に正面からアプローチしていて記憶に新しい。タイトルの「わたしいまめまいしたわ」は前から読んでも後ろから読んでも同じという回文スタイルだ。「わたし」探しで必ず直面する解決不可能な難問「わたしはわたしである」というトートロジー(類語反復)の鏡像モードになっている。先ほどのステラの「あなたが見ているものが、あなたが見ているものです」もトートロジー(類語反復)だったことを想いおこしたい。
「わたし」について考え始めると最後には「わたしってわたしなんだから・・・」と、最初に戻る結論にたどりついてしまう。ウロボロスの蛇に似た終わりが始まりであるような問いと答えを突き破るには「わたし」と同じような他人について考えてみるのがいい。
この展覧会にだされていたビル・ビオラの「追憶の五重奏」は、この点でとてもわかりやすい。極端なスローモーションで展開される五人の人物のアクション。なにかを嘆き悲しんでいるのだということがわかる。だれかの死を哀悼しているらしい。五人がそれぞれなにを感じなにを考えているのかを正確に確認することはできない。でも、悲しみ嘆いていることはわかる。わたしもつられて悲しい感じになってしまう。
他人である五人が悲しいと感じ、「わたし」も悲しいと感じる。他人や「わたし」に重きをおくのか、悲しいという「感じ」に重きをおくのか、重点のおきかたによっては「わたし」が他人と「つながる」通路が見えてくる。なにかを感じる「わたし」に重点をおいている限り他人は「わたし」の視野の「ソト」にいる。でも、「感じ」に重きをおいたら他人と「わたし」は「ウチ」や「ソト」という場所を必要としなくなる。他人と「わたし」は「感じ」で「つながる」。

湯本香樹実のもう一つの小説「夏の庭」(新潮文庫)は老人の庭を中心にして老人と少年たちが「つながり」を感じ、小さなコミュニティ(集まり)をつくっていく話だ。ビル・ビオラの「追憶の五人」の、共有する感情というテーマをもとに物語をつくったらこうかもしれないと思わせられる。現在の無縁社会に向けて20年近く前に発せられていたメッセージだとも読める。
そのなかで、老人と心を通わせるようになって、老人の家の庭をきれいに整えた後、縁側で老人がだしてくれたスイカを食べながら、父親のいない少年の一人がこんなことをいう。

おとうさんをりんごみたいに二つに割ってしまうこともできないし、うちにはおとうさんがいないから、おじいさんがひとりだから、だからおじいさんがうちのおとうさんになるってわけにもいかない。りんごじゃないんだから。でも、どこかにみんながもっとうまくいく仕組みがあっていいはずで、オレはそういう仕組みを見つけたいんだ。地球には大気があって、鳥には翼があって、風が吹いて、鳥が空を飛んで、そういうでかい仕組みを人間は見つけてきたんだろ。だから飛行機は飛ぶんだろ。音よりも早く飛べる飛行機があるのに、どうしてうちにはおとうさんがいないんだよ。

取り替えることができないそれぞれの「ひとり」。しかし同時に「ひとり」と「ひとり」とがうまく回っていく仕組みや考え方は、自然の世界の仕組みと同じように、まだだれも見つけていないけど、どこかに隠れて人間の世界を動かしているのでは。そういう仕組みに気づきさえすれば、人間の世界はもっとうまくいくはずだ。少年はそう思ったのだ。
「わたし」は「わたしだけが」という唯一絶対無二の「わたし」ではない。他人がそうであるような「わたし」でしかない。他人も「わたし」と同じもう一人の「わたし」なのだ。「わたし」が「感じる」ように他人も感じているという前提がなければ、他人と同じである「わたし」もなにかを感じることはできないということになる。こうして「わたし」と他人は感情を共有し「つながる」ことができる。
一方で、人間はこの「わたし」としてはかけがえのない取り替え不可能な「ひとり」だが、同時に「わたし」は他人と同じなので「ひとり」ではない。ここでひとりひとりが集まったコミュニティができあがる。
「わたし」をどんな「わたし」だと定義するのか、どんなポジションにおくのかが重要だ。「わたし」は特別なこの「わたし」ではない。他人がそうであるような「わたし」なのだ。「わたし」という一人称のことばは、わたしが使えばこのわたしを指示し、あなたが使えばあなたという「わたし」を指示する。トマトやりんごということばとは違って、使われるシーンで指示する対象を変えていくのだということに気づいておきたい。シフター(転換子)と名づけられている。
ウィトゲンシュタインの独我論もこうした「わたし」とそれほど隔たってはいないだろう。
 * * * * * *
クリエイティブはそれに接する人々の「感じ(フィーリング、感覚)」を通して人々の「つながり」をつくる。文化(culture)のラテン語の語源はcolere(耕す)だと広井良典は記している。そして、colereは「世話をする」が原義だともいう。おそらく作物を育てるために土地を耕すことは土地と作物の「世話をする」ことだからだろう。世話をしなければ作物は育たない。だから「ケア」と重なっていると広井良典は述べている。文化とは「ケア」だ。
アサビの文化としての「クリエイティブ・ガーデン」は教員が学生という植物の「世話をする」場所であるかもしれない。しかし、そういう二人だけの世界は閉じた「ムラ社会」になりがちではないか。「ムラ社会」を開くためには第三者、他者(「わたし」たちとは違うもう一人の「わたし」)が必要だ。
「クリエイティブ・ガーデン」を耕して「世話をする」のは教員以上に学生でなければならないとわたしは思う。学生と教員に「ケア」されて育ったクリエイティブという花が、蝶や鳥の姿をした多くの他者を呼び寄せる。クリエイティブをあいだに挟んで、わたしたちと他者とが互いに刺激しあってできる「つながり」、すなわちコミュニティがつくられていくのだと考えたい。蝶や鳥は別の他者の庭に「つながり」の花粉や種を運んでいく。
「つながり」をつくるために土地という環境や植物というクリエイティブを「ケア」するのだ。「ケア」された「夏の庭」での老人の庭の草花や「ポプラの秋」での庭のポプラこそがクリエイティブなのである。人と人との心の「つながり」、すなわちインター(相互の)・コミュニケーションが成り立っているコミュニティをつくっているのだから。
なにかを伝えたり伝えられたりするクリエイティブは、そこで初めて、人々がシステムや規則でつながっている社会に働きかける力に高められる。それが文化の豊かさだと思う。

<解題>
阿佐ヶ谷美術専門学校の卒業・修了制作作品集の巻頭文として書かれたものです。同時に、3月初めに横浜のBankArtで開催された卒業・修了制作展「クリエイティブ・ガーデン」を前提にしています。人と人との心の「つながり」が失われつつある日本で、どうしたら「つながり」をとりもどすことができるのか。クリエイティブに関わるわたしたちはこのことをどう考え、どう対応したらいいのかの道筋を示すことが目的の文です。結論的には、「感じる」こと、いわばフィーリングこそが「つながり」をとりもどす力になるのだと主張しようとしています。

図版
1.不空羂索観音立像 8世紀後半 東大寺法華堂(三月堂)
2.クロード・モネ「カミーユ・モネと子ども」1875年、ボストン美術館
3.ヴァンサン・ヴァン・ゴッホ「夜のカフェテラス」1888年、クレラー=ミュラー美術館
4.ビル・ビオラ「追憶の五重奏」2000


                      

2011年2月11日金曜日

震える空気、浮遊する身体ー日高理恵子「樹を見上げてⅦ」

                                  樹を見上げてⅦ  部分

               「樹を見上げてⅦ」 
           1993年 紙本 彩色 220×600cm 東京国立近代美術館


 東京日比谷の松本楼のロビーで日高理恵子の「樹を見上げて」(リトグラフ)2点を目にした。1月の終わり、日比谷公園の木々のあいだを風が吹き抜け、残った晩秋の枯葉が舞っていた夕暮れ時。懐かしい友人に久しぶりに会った気分だった。
東京国立近代美術館で「樹を見上げてⅦ」を見たのは、それよりも少し前だった。

日高理恵子は長年、樹を見上げて幹や枝を描き続けている。緑の葉が茂る春の樹が描かれているのを見たこともあるが雰囲気がずいぶん違っていた。大半は葉や花のない樹の幹と枝だけが描かれている。無限の空と、それとは正反対の近接視の樹とが描かれているといってもいいだろう。

「樹を見上げて」は通常の風景画と違っている。
地面に平行して視線を投げかけて見通す、深まり遠ざかっていく風景では、「わたし」が能動的に風景を見ているという実感がある。「わたし」が、今、ここにいて、木々や道や建物は「わたし」からある距離をもって存在していることがわかるからだ。
けれども、焦点を定めることのできない無限の空を見上げると、空を見ているというよりも、空、もっと直接的な感じでは空気に包まれているという受動的な気分に陥るのではないだろうか。そうした状態で描かれた無限の空と手にとれるかのように感じられる樹は、「地」と「図」とか背景と前景というような関係でとらえることはできない。

絵画に近づいて見たときの、決然と、空や空気を切り裂くしなやかなのに力動感あふれるドゥローイングには驚嘆するばかりだ。
画面上方右隅から画面左下隅に向かって対角線状に伸びるかに思われた太い幹は、枝を広げながら画面左縁に沿って上方にぐっと湾曲する。それを受けてもう一本の幹から伸びた枝が画面上縁に沿って弧を描いて最初の幹に交差する。交差した枝の勢いはそのまま画面右下隅に向かって枝と枝とがつくった空洞を駆け抜けていく。右側の半円が開いた横に倒した8型あるいは∞(無限)型が枝と空虚な空とで形成されている。

そう見えたとき、無限遠の空は降り注ぐ光になってわたしを包みこんでしまう。枝という枝はざわめいて風を吹かせる。
生き物のように増殖したり減少したりするように見える枝は、同時に、拡大したり縮小したりしながらわたしの体を持ちあげ、宙吊りにしてしまう。
けれども、ざわめいて、増殖と減少を繰り返しているのは樹の枝ではなくて、陽炎や蜃気楼の場合のように空気がたわみ、波打っているからかも知れない。
わたしのささやかな呼吸も膨らみ縮む空気となって無限の空に連なっているに違いない。有限でちっぽけなわたしの体のなかに空が浸透してわたしを包み、わたしと空とが一つになってしまうような気分になる。

この「樹を見上げて」を見ていると、視野が左右で伸縮する身体的な経験では川村記念美術館にあるバーネット・ニューマンの「アンナの光」と比較したくなる。肥痩さまざまな線がわたしの視野のなかで手前と奥、上下左右の揺れ動きながらイメージを形成したり壊したりしていく様子からは,、デュッセルドルフのノルトラインウエストファレン美術館でジャクソン・ポロックの「32番」(1950年)を見たときの経験を想いだす。
けれども、それ以上に、薬師寺東塔水煙で空気を漂わせる天女や、イタリアのパドヴァの礼拝堂壁画に描かれたイエスの死を嘆き悲しんで空気に沈むジオットーの天使などに思いを馳せたくなるのはどうしてなのだろうか。
気持ちを高揚させ身体を上昇させる、めくるめく浮遊感を感じさせられてしまうからなのかもしれない。
そこでの主役は幹や枝よりも、空間という言葉ではあまりにもよそよそしくなってしまうので、とらえどころのない無限でありながら、わたしを包みこんでいる空気そのものだというのがふさわしい。

2011年1月16日日曜日

瞑想する平面 ブラック「静物」1910~1911年 国立西洋美術館


ジョルジュ・ブラック「静物」1910~11年 国立西洋美術館 東京 上野

昨年、国立西洋美術館にジョルジュ・ブラックの「静物」が新しく収蔵された。33cmと24cmの小さな油彩画だ。1910~1911年の制作とされている。分析的キュビスムから総合的キュビスムにいたる時期のブラックの絵画で日本にあるのは、わたしが見た限りでは東京国立近代美術館の「女のトルソ」(1910~1911年)、川村記念美術館所蔵「マンドリン」(1912年)と並んで3点になった。

おそらく、「静物」が「女のトルソ」よりも早く描かれたのだろう。「女のトルソ」の方が重なってずれていく面の透明感がより強い。「静物」は画面全体の緻密な結合感が強い絵画だ。

水平線と垂直線に、主として右上がりの斜線が組み合わされた構図になっている。
静物のモチーフがなにかは判然としない。当時、ブラックが描いていた他の絵画から推測すると、画面左右の中央に垂直方向で形成されている形態はラム酒などの「瓶」、それに重なって右下がりの斜めの線が繰り返されて左上方では歪んだ楕円を形づくっている形態は新聞などの「紙類」かもしれない。それらがテーブルの上に置かれているのだろう。右上がりの断続する二本の長い斜線や、左下で三角形の暗い面をつくっている右下がりの斜線はテーブルの縁だろうか。

「女のトルソ」ほどではないが、画面の周囲が希薄で中心が濃密に描かれ、画面上方の半円部分を頂点とした下部が重いピラミッド型の構図になっている。特に画面の垂直の「瓶」から斜めの「紙類」にかけて奥から手前にせりだす盛り上がりが感じられる。
しかし、同時に、そのあたりは明度が上げられ透明性も強められて、「瓶」や「紙類」の盛り上がりを押さえて、画面の表面に押し込まれているようにも感じられる。
画面左下には、左上がりの目立った斜線が、まるでドガのカフェの男女を描いた「アプサント」のように画面のフレームで光景を断ち切る斜めの構図を思わせたりもする。この暗い斜面はそれ以外の光景を塀越しに見ているというような感じにさせてはいない。その斜面は上方の右上がりの斜線と関係づけられて、中心部の盛り上がり感に比較して後退する平面をぐっと手前に引き出している。つまり、塀から見る光景のように、塀が手前、塀の向こうが遠く、というような見え方とは正反対だ。上方を前進させている。そして、中心部の盛り上がる物体感に対抗させているように見える。

ブラックは同時期のピカソに比較すると、モチーフの物体と背景との融合度が高い。
1908年のアフリカ彫刻の影響の渦中での制作なので同じレベルでは比較できないが、人形町Vision’sメールマガジンI・F・C「Inter - for creative」(申し込みはこちらhttp://www.visions.jp/FS-APL/FS-Form/form.cgi?Code=vmailmag )の2011年1月号掲載でとりあげられているエルミタージュ美術館のピカソの「ミルク缶と鉢」などと比べてみてもいいだろう。
わたしは実物の作品を見たことがないので正確なことは言えないが、そこでは、下から上にかけて大きくなる四つのモチーフが曲線や斜線で繰り返されて画面の表面に位置づけられ、堅固な平面的な構造が生まれている。
だが、同時に、四つのモチーフの色彩が変えられ、モチーフの後方の輪郭もしっかり描かれていて、それぞれの隙間が強調されることでモチーフの後ろ側のボリュームも表明されている。前キュビスムに特徴的な逆遠近法的な対象の処理を通して、平面に即して曲線や扇形をリズミカルに繰り返した平面構成と、それとは異質な対象のボリューム感とを、セザンヌ風なパッサージュを使わないで融和させるという困難な道を選択していることがよくわかる。


参考 パブロ・ピカソ ミルク缶と鉢 1908年 エルミタージュ美術館

ピカソのこうした傾向は1910~11年の分析的キュビスムの時期でもしばしば見られる。
これも実際には見たことがないので不正確かもしれないが、人形町Vision’sメールマガジンI・F・C「Inter - for creative」で上記の作品と同様にとりあげられていたピカソの分析的キュビスム最盛期の「瓶とグラス、フォーク」でも同様だ。ピカソはモチーフの対象同士や、対象と背景とのささやかな破綻を意図的につくって、全体のスムーズな統一感をちょっと脱臼させるのが好きらしい。

参考 パブロ・ピカソ 「瓶とグラス、フォーク」1911〜12年 クリーブランド美術館


しかし、ブラックはピカソとはその点では違っている。モチーフとモチーフ、あるいはモチーフと背景の融合度が高い。こうした融合は面をダブらせてずらす、いわゆるセザンヌ主義的なパサージュを応用して描かれ始めたのだった。物体の断片は繰り返されながら背景に融合する。断片化した面を画面の表面に位置づけることができる方法だ。すべての面は必ずどこかに開口部をもっているので画面は連続した表面になる。

これがブラックの「平面性」である。ただ単に平坦なのではない。連続した表面なので、凹凸の隆起や後退をつくりだすことができる。「静物」でもそうだ。断片化したすべての面を絵画としてまとめあげるこうした「平面性」が、絵画空間を統合する役割を果たしていた伝統的な絵画での一点透視図法の代わりとして機能する。面の融合度が高いので「静物」といわずブラックの分析的キュビスムから総合的キュビスムにかけての絵画はピカソの絵画とは違う破綻のない「古典的」秩序感がある。バーゼルにある「音楽家のテーブル」がそうした絵画ではブラックの最高潮だ。秩序のなかでラジカルに憩っている。

「静物」での斜線や垂直線、水平線で区切られた面は、暗いブラウンと青みがかったグレーとを基調にした色彩の縦の細かいタッチが繰り返されて並置されている。並置されたタッチは物体と背景を包含する絵画の空間を触知可能な連続した平面性として感じさせている。褐色と青灰色のコントラストは伝統的な明暗の対比によるのとは異質な量感を醸しだしてはいないだろうか。

物体と背景との距離が失われた連続した平面上で断片化された面がそれぞれの膨らみをもって静かにざわめいている。かすかにヘルメティックな輝きで彩られて、わたしを密かな瞑想へと誘うことをやめることはない。

参考
yahooブログ「アートが丘」2010年12月19日「絵画をわかるとは?ピカソとブラックの分析的キュビスム絵画」
URL: http://blogs.yahoo.co.jp/hayavoir4324/60367458.html