2014年9月12日金曜日

ウジェーヌ・ブーダン 時の流れをさかのぼって

ウジェーヌ・ブーダン
「川沿いの牛の群れ」 
油彩 カンヴァス 32×46,5cm
ル・アーヴル アンドレ・マルロー美術館



「ノルマンディー展 近代風景画のはじまり」、東京、新宿にある東郷青児記念・損保ジャパン日本興亜美術館で開催中です。

フランスのノルマンディー地方というと、第二次世界大戦やジャン・フランソワ・ミレーでとりわけ知られている。
ノルマンディー半島のつけ根ともいえるセーヌ川の流域のル・アーヴルやオンフルール、サン・シメオン、サン・タドレス、トゥルーヴィルなどの町は、野外での「近代的」レジャーと印象派とによって、フランスの「近代生活」の様子が、日本のわたしたちにも知られるようになった。
これらのセーヌ川の流域の町は、いまでも印象主義の聖地だ。
かつてセーヌ川の潮津波に乗ってノルマン人がパリに遡上しようとしたように、19世紀半ばには、印象主義の潮津波がル・アーヴルやオンフルールからパリ近郊へと逆流してきたのだった。

この展覧会は、ノルマンディーで新たに展開された「近代生活」と従来の田園生活とが二重映しになって提示されている。
19世紀以後の風景画は、伝統的な自然主義絵画から、感覚可能な「もの」を描くレアリスムや、感覚可能な究極は「もの」ではなく光だったとする「目の中で生産される色彩」の発見の影響を受けた印象主義、そして、新印象主義を経て20世紀初頭のフォーヴィスムへの流れを、絵画メディアの特性にもとづいた、自律的で還元的な進化のプロセスとしてとらえられてきた。それが「近代化」だった。

いわゆる筆触分割=色彩分割による細切れのタッチによる小面は、フォーヴィスムにいたって大きくフラットな色面のコントラストとして実現されることになった。そのとき、近代絵画は自律したというのが絵画の言説空間の中で大きな物語となったのである。
他の芸術メディアにはない絵画の固有の特性が、絵具のタッチ、限定された画面型、平面性の三位一体にあるとみなす考え方にもとづいている。
こうした「絵画の進化論的な流れ」はわかりやすく辻褄があっているように思われる。モダニズムの言説空間では長い間、説得力ある絵画物語として機能してきたのはそのためだ。
しかし、「絵画の進化論的な流れ」という近代絵画の神話は、ロザリンド・クラウスやハル・フォスターのみならず、今では、多くの論者によってディスロケーション(脱臼=転位)されているのは周知のことだ。

わたしは、今回、ブーダンの絵画に、とても魅力的ななにごとかを見いだした。
たとえば、ブーダンの牛の絵の前で、2006年、国立国際美術館で開催されたエッセンシャル・ペインティング展のセシリー・ブラウンやリュック・タイマンスを素朴に連想しないわけにはいかなかった。当然、17世紀のパウル・ポッターの時間が停止した空間の中の雄牛も想いおこしたのだが。
こんなことから、ブーダンをきっかけにして、「描く」ことについて「近代絵画」の言説を批判的に回顧しながら再考してみるのは興味深いことだと考えるようになった。

近代生活を「いま、ここ」のポジションから描いたブーダンや印象主義者たちは、どうして細切れのタッチやストロークを用いたのか。
濁っていない明るい色彩を画面上に実現するためだとか、現実から受けた感覚、すなわち色彩の同時対照のような目の中で生産される束の間の網膜現象を即興的に素早く画面に定着させるためだとかと説明されてきた。
敷衍すれば、目の前の現実から、手の下にある画面や絵の具というメディアへ、つまり描くべき対象から描かれるべき絵画そのものへと関心が移動したのだと考えられてきた。モダニズムの王道的言説である。

「近代化」のプロセスにおいて、対象から絵画そのものへと「主題」が移動したということだ。
印象主義から新印象主義、ポスト印象主義、フォーヴィスムを経て、その途中で象徴主義をミックスすれば、「自然から抽象へ」というモンドリアンのキーワードも素直に飲みこみたくなる。実際、わたしたちはそう理解してきた。
だから、目に見える現実の再現から、目に見えない精神性の表現という20世紀絵画の大文字の主題は、モダニズムの進化の必然的帰結だということになる。

けれども、こうしたモダニズムの文脈とは違う場面もあった。
たとえば、アメリカのモダニズムの一つの到達点だとみなされているバーネット・ニューマンでさえこんなことを記している。
カオスに渦巻く自然を前に畏怖の感情にとらえられた最初の人間は、地面に一本の線を描いた。
「描く」ことの始まりは魔術的なもので、再現的なものではなかったのだと主張している。
「自然から抽象へ」あるいは「再現から絵画それ自体へ」ではなく、「抽象から自然へ」あるいは「描くことから再現や絵画へ」と言った方が人の「絵」の進化の説明として説得力があるかも知れない。

ブーダンをモダニズムの文脈からはずすと、画面につけたタッチが、他のタッチとの関係で、ある場所では牛になり、別な場所では雲や空になっているだけなのだと考えることができる。描くことはほとんど降霊術的な行為ではないか。
一つのタッチが、一つのタッチのままで、イメージを受肉する瞬間があるということだ。
ダブルネスとか二重像、あるいはメタファー、さらに意味の方向を違えて、アナグラムということもできるのだろうか。
絵画に近づいてみるとタッチの集積だが、離れて遠くから見ると形象が見えてくるといったこととは異質なことがらだ。

パリコミューンのころ、クロード・モネが妻子とともにイギリスに向かう前に、トゥルーヴィル海岸で描いたストロークによる習作的な絵画も、「ノルマンディー展」で2点展示されている。それを眺めているとこんなことが想いおこされた。
ニューヨーク近代美術館のピーター・ガラシは写真の始まりについて述べながら、伝統的な風景画から印象主義の風景画への推移を、広く当時の西欧の風景画全般を視野にいれて「構想画からスケッチへ」、言い換えれば「フォーマルからカジュアルへ」とでもいえるような見方を提示したことがあった。それはそれで十分説得力があった。
でも、そうした見方を越えて、モネのこれらの絵画は、描くことの原初の地点への退行ではないのだろうかとさえ思わせられた。

ブーダンやモネの絵画のタッチやストロークは、ジャン・フォートリエなどの1950年代のアート・シーンを席巻したアンフォルメルの「ジェスト(身振り)とマチエール(物質)」とは違っていることは、誤解のないようにつけ加えておかなくてはならない。

「ノルマンディー展 近代風景画のはじまり」は、主催者の意図とは違って、印象主義に始まりフォーヴィスムやキュビスムによって20世紀初頭には早くも完成されていたモダニズム絵画の自律性という文脈とか、近代生活、「いま、ここ」といった定番ボキャブラリーを括弧にいれて、絵画での「近代」の始まりを見直さなくてはならないとさらにいっそう感じたのだった。
(はやみ たかし)
※「ノルマンディー展 近代風景画のはじまり」(東京、東郷青児記念・損保ジャパン日本興亜美術館 9月6日〜11月9日)から取材しました。


2014年7月15日火曜日

牛膓達夫個展 [ひとつ、ふたつ、そして] <メタル・アート・ミュージアム 光の谷>

Inter-text 連載「見ることの誘惑」(全53回)
第三十一回 「共に在る」感覚
牛膓達夫個展[ひとつ、ふたつ、そして]

テキストは、現在、鋭意、作成中です。
近日中に、ここに公開します。
いまは、簡単なコメントを記しておきます。

千葉県印西市にある<メタル・アート・ミュージアム 光の谷>で、7月27日(日)まで、牛膓達夫の展覧会が開催されています。

印旛沼近くに位置するこの美術館は、小さいながらも、中に入ると不思議な空間に包まれ、外の田園と快い断絶とつながりを感じずにはいられません。

牛膓達夫の作品は、「在る」ことを通して、「非在」を現前させるといった、魔術的な経験を、いつも、もたらします。
そのことによって、その場にいるわたしに、作品と「共に在る」とか、空間と「共に在る」といった、いま、ここの、生の充実感や高揚感を喚起させるのです。

たとえば、目下、話題の台北国立故宮博物院の「翠玉白菜」の「現物」を、長時間待ったとしても、自分のこの目で見てみたいと思うのは、どんなものかなといった感じで、たんに「見る」ためだけではないのではないでしょうか。
「現物」の「翠玉白菜」と、この場やこの空間と取り替え不可能な共存をしたいといった願望からだと思うのです。

牛膓達夫の作品はこうした「共に在る」感覚をわきおこさせながら、現代アートの最大のプロブレマティーク「在ること」と「非在」の問題にアプローチし続けています。

とりいそぎ、<メタル・アート・ミュージアム 光の谷>での展示の三つのシーンを掲載しておきます。





Metal Art Musem HIKARINOTANI
※画像は、現在開催中の「<メタル・アート・ミュージアム 光の谷>[ひとつ、ふたつ、そして]牛膓達夫」(2014年6月28日〜7月27日)から取材しました。


2014年6月11日水曜日

円山応挙 「藤花図屏風」 根津美術館ー立ち上がる、すだれる。舞う、うねる。(後編)ー


Inter-text 連載「見ることの誘惑」(全53回)
第三十回  立ち上がる、すだれる。舞う、うねる。(後編)
円山応挙 「藤花図屏風」  六曲一双 江戸時代 根津美術館 東京

早見堯

  円山応挙 「藤花図屏風」  六曲一双 江戸時代 根津美術館 

円山応挙「藤花図屏風」と、尾形光琳「燕子花図屏風」を同じ部屋のなかで見ると、ずいぶん趣が違うことがよくわかる。

光琳「燕子花図屏風」の燕子花は、重力に逆らって垂直に立ち上がる緑の葉に対して、空間に浮かんで漂う藍色の花。
茎と葉とで緑色に差がつけられている。花も濃淡二色の藍色。
応挙「藤花図屏風」では、重力にしたがって垂れる藤の花に対して、空間を上下や前後左右にくねりながら舞うかのような幹。細密に描かれて静かに垂れ下がる藤の花と、いわゆる「付けたて」法で一気呵成に描かれたからなのだろうか、スピード感のある幹。
光琳の葉と花の関係は、応挙では花と幹との関係に対比することができる。
その結果、光琳の燕子花では上昇と無方向的な漂い、応挙の藤では下降と上下と前後への乱舞といった風情をかもしだしている。

けれども、一方で、両方の屏風の背景の金地は平面性と微妙な輝きとで、燕子花と藤を屏風の画面にがっちり位置づけさせると同時に、逆に、自由な上昇や漂い、下降や乱舞をひきたててもいる。
ここは、逆かもしれない。
藤の花が垂れ下がったり、幹がくねったりといったことは、現実の束の間の出来事でしかない。
特に花が開くのは一年間のほんの短い期間だ。
藤の花を愛で、幹の乱舞に心を動かされるとしても、それは、世界の片隅でたまたま生まれ、すぐに消えてなくなる現象でしかない。
身近な日常の断片でしかない藤の花や幹は、背景の金の、現実を包み込み、そして現実を越えて泰然自若とした不変の宇宙の匿名的な輝きの引き立て役であるかのようにさえ感じさせる。
背景の金が釈迦の手のひらだとしたら、手のひらの上の悟空が藤の花や幹ということだ。
屏風の右でも左でも、藤は屏風の上下で断ち切られている。左隻では屏風の左でも断ち切られている。
広い宇宙の一断面、束の間の視野のなかの出来事だと感じさせる。
なんだか、芭蕉の「不易流行」を想いだしてしまう。
移り変わる幻のような日常に流行する出来事と、それを包み込む不易の宇宙。
そんなシーンを想像してしまう。

あるいは、そもそも、応挙「藤花図屏風」は、屏風という物理的に限定された画面のなかで完結することを拒否しているのではないだろうか。
限定された矩形の画面という前提がなければ、中心もあるわけがない。
いわゆる統一されたコスモスにはなりえない。
一点透視図法の遠近法を想いおこしてみればすぐに了解されるが、線遠近法は奥行きの表現以上に、限定された画面に描かれたもう一つの現実世界に、統一や秩序を与えることがより重要な役割だった。
応挙「藤花図屏風」では、いろいろな意味での統一性がない。中心がないからだ。
これこそが日本の絵画のほとんどに見いだされる基本的な特質ではないだろうか。

もっと別なシーンもある。
上昇と無方向的な漂いとか、下降と上下前後への乱舞といった対立する力と動きの絡み合いは、見ていると凛とした感情をかきたてられる。
そうすると、別なイメージへと連想が広がっていく。
応挙の藤、特に幹は水墨画で描かれる龍をイメージさせる。
応挙自身の龍もある。それとは少し雰囲気が違う。
永徳とか等伯、あるいは蕭白のなどの龍のイメージを想い浮かべてみる。藤の幹が龍なら、藤の花は雲ということになるだろうか。
応挙の藤の幹は、ことさらに静止的な花に対抗して動的に描かれているような気がする。
東京国立博物館にある「振袖 鶸色縮緬地桜藤菊尾長鳥模様」では垂れ下がる藤の花は左右に揺れた状態で織りこまれている。その方が他のモチーフと関係をつけやすいためだろう。他のモチーフの桜や菊、尾長鳥などとゆるやかに融和している。
左右に揺れることなく垂直に垂れ下がる応挙の藤の花は、だから、幹に鋭く拮抗していることになる。



描かれた松、特に雪をいただいた松は、応挙の藤にもっと似ているかもしれない。
三井記念美術館の「雪松図屏風」左隻の雪松と応挙「藤花図屏風」右隻の藤花はとても似ている。



雪の重みで下に垂れる松の葉叢,右上に向かう太い幹に対抗して水平方向から少しずれて左下に向かう幹。木の枝振りの定番が踏襲されているにすぎないとしても、藤の幹のくねる乱舞よりも力強い動きを感じさせる。
応挙の藤花に比べると、冷たい雪をおおらかに受け止める骨太で、ゆったりとした雰囲気をかもしだしている。

円山応挙の「藤花図屏風」を尾形光琳「燕子花図屏風」と比較しながら見ていくと、単独で見たときとは違った発見があり、多様な感情的な経験をもたらしてくれたのだった。

円山応挙の「藤花図屏風」と尾形光琳「燕子花図屏風」を見てから、すぐ後、国立新美術館で中村一美の絵画を見た。

拮抗するモチーフ、作品を見てかきたてられる感情、そしてなによりも画面の中で完結することのない空間や中心のなさなど、応挙やそれ以外の日本の絵画に想像が広がっていくのは、とても爽快だった。
中村一美の絵画を初めて見たのは、1985年の東京芸大会館での「風景展」だったのだろうか。力強いY型が印象的だった、力のある絵だと思いながら躊躇する気持ちもあった。あからさまに象徴的であると同時に具体的な垂直のモチーフを感じさせられることに戸惑ったことを憶えている。以後、藤野の野外の立体や、昨年の南天子の「聖」を見ても、Y型がなぜか鮮烈によみがえってくるのだった。
国立新美術館で今年の3月から5月にかけて開催された「中村一美」展を見て、Y型がはじめて納得できた。すると、あらたな眼差しで中村一美の絵画を見ることができるようになった。

逆さまにすると少女の顔が浮かびあがるかのような、逆カンディンスキー体験をもたらす「存在の鳥」を含めて、次回は「中村一美」展について書いてみたい。
(はやみ たかし)








2014年5月10日土曜日

尾形光琳「燕子花図屏風」、円山応挙「藤花図屏風」ー立ち上がる、すだれる。舞う、うねる。


■inter−text「見ることの誘惑」第二十九回
立ち上がる、すだれる。舞う、うねる。(前編)

尾形光琳「燕子花図屏風」六曲一双 江戸時代 根津美術館 東京
円山応挙 「藤花図屏風」  六曲一双 江戸時代 根津美術館 東京
     
                                   尾形光琳「燕子花図屏風」
右隻

                    左隻

           円山応挙「藤花図屏風」
                                                               右隻

左隻

尾形光琳「燕子花図屏風」と円山応挙「藤花図屏風」を見た。

背景の金地の余白を大胆に生かした、共に六曲一双の屏風の名品としてあまりにもよく知られている。
すでに多くの人によって微に入り細にわたって、さまざまなことが書かれている。
あらためて書くほどの新発見があるわけではない。
興味深いと感じたことがあった。

二つが同時に並べられているのを見たのは初めてだった。
似ているけど、なんだか正反対にも思われて、不思議な感じがした。
共に背景の金地の余白を大胆に生かした六曲一双の屏風。俳句の季語としては、藤は春、燕子花は夏のようだ。でも、ほぼ同じ時期に花開く。花の色の紫も同じだ。
けれども、屏風絵の雰囲気はずいぶん違っている。

二つ並べて見たときに感じた違いは、一言で言えば、以下の動詞で要約することができる。
光琳の「燕子花図屏風」は「立ち上がる」、「舞う」。
応挙の「藤花図屏風」は「すだれる」、「うねる」。
このあたりを書き記してみたい。

屏風絵は、右隻と左隻の中央に立ち、屏風の表側に見ている自分の顔を向けて、自分の左側の右隻を見、つづいて、右側の左隻を眺めてみないと、自分自身の身体を軸にした臨場的な実感はえられないのかもしれない。
美術館で見るときは、そういう見方はほとんどできない。
美術館では、距離をおいて屏風に向かい合い全体を見る。次に、近づいて正面から右隻、左隻と見ていくのが一般的だ。
光琳「燕子花図屏風」を右隻の右端から見ていくと、群生する燕子花がリズミカルに動いていくのがわかる。右隻が燕子花の上部が曲線状、左隻では上部が三角形状のリズムが繰り返されている。これはしばしば指摘されてきた。その通りだと思う。

わたしは、それとは別のことに気づいた。
右隻でも左隻でも燕子花の図柄は作り方は似ているが、視野のカットの仕方が違う。
そのために、右隻では、燕子花の群生の中の橋に座って燕子花に取り囲まれながら眺めている感じがでている。
中国宋時代の遠近法、郭煕の「三遠法」を適用したら「平遠」だろうか。

けれども左隻に移動すると、燕子花の下部は大きくカットされて、上部の視野が開けてくる。
右隻の燕子花の下部で繰り返されていた三角形状のリズムが、左隻では燕子花の上部で展開されている。
右隻から左隻に目を移した瞬間、一瞬、天地が逆転したかのような錯覚にとらえられてしまう。右隻の左端と左隻の右端が連続している感じがあるから、なおさらそう感じられるのかもしれない。

左隻では上部にだけ余白がつくられているので、見上げた時のような、郭煕の「三遠法」でいえば「高遠」的な空間になっている。
にもかかわらず、右隻の燕子花の下部が左隻の燕子花の上部に移動したかのように思われる。
この場合は郭煕の「三遠法」でいえば、見下ろす「深遠」ということになるだろうか。
右隻の燕子花の下部、すなわち「近く」が、左隻では、本来「遠く」のはずの上部に移動しているので、「遠く」が「近く」に変貌した感じが生まれているのだ。

簡単に言って、視野が異なる右隻と左隻を、燕子花の上部と下部のリズミカルな展開で整合的に関連づけているのである。
だから右隻から左隻へと順次見ていくと、燕子花が下から上へと競り上がり、奥から手前に向かってくる力動感がある。
この力強さは応挙の「藤花図屏風」と比べて見ていたので、ことさらにそう感じたのかもしれない。

館内の屏風を見てから、園内の庭に群生して咲いている燕子花を見た。
池は下なので、まず、下方にある燕子花の池を斜め上から、少しばかり「深遠」的に見下ろすことになる。燕子花の花が緑の葉の上に浮かんでいるかのようだった。


ところが、次に、池の縁に下りて、燕子花の群生を正面から「平遠」的に見ると、花は葉の間に隠れたり、葉と葉の間から花がちらほらと垣間見えたりすることになる。


そのとき、わたしの視野の中で、今、ここで、目にしている燕子花の光景に光琳の燕子花図が重なってきた。
燕子花図では、燕子花の根元も見えるのに、花があんなにはっきり見えるのはどう考えても不自然ではないか。

光琳の燕子花図は、大地に平行する視線で「平遠」的にとらえた葉に、上から見下ろして「深遠」的にとらえた花や、茎から切り離した図柄としての花を再び組み合わせ直したのだろう。
今、ここで目撃した燕子花が描かれているのではなく、練り上げられ洗練させられて、記憶のなかで生きている燕子花図なのだ。
だから、今、ここで目撃している燕子花よりもより自由になって、図のなかの世界で大きく羽ばたいている。
すなわち、上部に向かって立ち上がる葉の上で、花が蝶のように漂い舞っているように感じられるのだ。
しかも、葉と花は、手前と奥とではなく、同じ平面上で噛み合っている。
力動感が生まれているのはそのためなのだろう。

ところで、燕子花の花が「蝶のように漂い舞っている」と感じるのは、わたしだけではないようだ。
現在、東京国立博物館で展示されている「打掛 鼠地唐織花文網目繋八橋胡蝶模様」(江戸時代)では、光琳の燕子花図と同じ「伊勢物語」第九段「八橋」をモチーフにして、蝶が花と競い合うかのように舞っている。


            打掛 鼠地唐織花文網目繋八橋胡蝶模様 江戸時代

光琳の燕子花図では葉は上部に向かって「立ち上がり」、花は葉の表面で蝶のように「舞い」漂っている。
現実と幻想が混ざりあって共存したシュルレアルな経験だ。

円山応挙「藤花図屏風」は、光琳の燕子花とは違っている。
(つづく)

(はやみ たかし)


注;東京、青山の根津美術館で2014年5月6日に取材しました。
注;「打掛 鼠地唐織花文網目繋八橋胡蝶模様」は東京国立博物館常設10室「浮世絵と衣装」で、6月15日まで展示されています。