2025年6月23日月曜日

充実した空虚―空間の呼吸と体温 「加賀谷武遺作展」

*この文は富山県小矢部市、アートハウスおやべでの遺作展開会式で行う予定だった挨拶を文章にしたものです。 当日は諸般の事情で欠席せざるを得なくなったので、講演予定だった内容です。 1 はじめにー凛としているのに柔和な空気感、空気は美しく風はやわらか 加賀谷武さんの金沢の仕事場を訪れたことがあります。アートスペース砺波での個展準備中で、富山の美術をリードしていた津山昌さんが健在のころなので一九九〇年前後です。 作業場は整然とした経師屋さんの趣がありました。丁寧に扱われている様子の材料の木が放つ芳香といったらいいのか、なんともいえない凛として柔和な空気を感じたことを憶えています。 加賀谷さんの作品は先鋭的な「現代美術」なのですが、いわゆる「現代美術」といいきれない残り香のような余韻や漂うようなイメージの気配があります。それは作品のどこに由来しているのだろうかと、なに気なく考えていました。 今回、作品の画像を眺め、作業場やそのほか加賀谷さんと一緒に訪れた場所を振りかえっているうちにふと気がついたのです。「空気は美しく風はやわらか」。 これは、元号「令和」のもとになった万葉集に記録されている九州の太宰府での「梅花の宴」序文の中の一節、<時に初春の令月、「気淑(よ)く風和(やわら)ぎ」>の中西進による口語訳です。大伴旅人など筑紫歌壇の万葉歌人たちにとっては、そのとき、梅の花の色と香りが空気を美しく風をやわらかにすると感じられたのです。金沢の作業場の木の作品をはじめとして加賀谷さんのすべての作品は太宰府の宴の梅の花と同じように美しい空気とやわらかい風を生みだしていたように思います。 2 木枠による「空間生態」「空間生体」と色面と色面の余白としての「間」 こうしたわたしの気分を裏書きしている加賀谷さんの言葉があります。 <その実態を手にすることができないもの、例えば、「空間」をどう認識するか。なにげない「木」で作られた枠組は、その一つの手がかりである。しかも、この枠は空間を限定しない。木がはらむ体温は、内と外とを隔てることなく、むしろそれを交流させていくのである。在って無いもの、繋ぎとめようとしても移ろい、漂っていくものを、それは現出させる。虚ろだった空間が濃度を増し、見えないもので満たされるのを垣間見せるその時、知覚を誘う媒体となりながら、木枠は自らも静かに呼吸を続けている。> 加賀谷さんのこの言葉は「美術手帖」一九九三年四月号の裏表紙に「空間の木枠」という見出しで掲載されていました。わたしが金沢の作業場を訪れた少し後です。「空間生態」や「空間生体」のタイトルで木を枠のように使った作品が作られていた頃です。 木枠の内側と外側を交流させているのは「木がはらむ体温」だと加賀谷さんは指摘しています。また、「木枠は自らも静かに呼吸を続けている」とも述べています。「木がはらむ体温」と「木枠の呼吸」はこの文の十五年前、一九七八年に、東京、銀座のシロタ画廊で展示された加賀谷さんの秀作「間」シリーズの平面作品と呼応しているとわたしは考えています。「間」シリーズでの塗られた淡い色面と色面とのあいだの塗り残しの線的な余白。その余白は「空間生態」や「空間生体」での木や木枠に照応しています。 「空間生態」や「空間生体」の木や木枠も「間」シリーズの余白も、わたしたちに空間を濃密に体験させると同時に、自らも「体温をはら」んで「静かに呼吸を続けている」のです。
3 作品の呼吸と体温―「木」は気分の「気」、「間」は手で触るの「摩」 わたしは最初の加賀谷さんの作品集で「間」シリーズに触れて次のように書きました。一部分だけ引用しておきます。 「カンヴァスの表面はそうとはすぐに気づかない塗り残しの隙間の線によって、かすかに息づいているといった趣だった。光が表面にとらえられ、ゆるやかに揺れている。・・・表面の微妙な振動が生れていた。それが虚空間、背景の輝きだ」 考えてみると、加賀谷さんの作品での「木」は気分の「気」に、「間」は手で触るの「摩」に通じているのではないでしょうか。木枠の「木」や「間」シリーズの塗り残しの「間」は「自らも静かに呼吸を続けている」し、「体温をはら」んでいる。呼吸が「気」で、体温が「摩」ということになります。 「空間生態」や「空間生体」での木と、「間」シリーズでの塗り残しの余白の間は、空間の呼吸(気すなわち木)であり、しかも体温(摩すなわち間)といえるのではないかと思います。 だからこそ、わたしは、最初に述べたような、加賀谷さんの作品に、残り香のような余韻や漂うようなイメージの気配を感じたり、凛としているのに柔和な空気感を味わったりしたのでしょう。
4 加賀谷作品が響きあう円山応挙の「氷図屏風」 ここまで述べて、ふと、ある屏風絵の記憶がよみがえってきました。いつか東京国立博物館で見た円山応挙の二曲一隻の「氷図屏風」です。空白の地に鋭い墨の線が断続的に施されているだけの氷図です。筆勢を生かすというのではなくて対象を忠実に描写するかのように丁寧に描かれた線。その線は氷の裂け目か、それとも凍った氷と氷がくっついたときにできた氷の迫り上がりを描写しているのでしょう。けれども、それだけではなくて、「氷図屏風」が茶室に設置された時に醸しだす空間の雰囲気が重要なのです。ある季節には清涼感を漂わせ、別な季節には凛とした緊張感を生みだすのです。茶会の場に、呼吸と温度、「気」と「摩」を生みだしていたのです。そこが加賀谷武の作品と響きあうところです。 こういう風に加賀谷作品をとらえてみると、ここで、自然と、ロープインスタレーションが登場してくるのではないでしょうか。加賀谷作品の木や木枠や、色面と色面の余白としての「間」などが、円山応挙の「氷図屏風」で断続的に連続する鋭い線を想い起こさせるのだとしたら、その線を現実の空間で展開したのがロープインスタレーションだということになります。 5 「ロープインスタレーション」についてー霊的な力の場 東京のシロタ画廊でのロープインスタレーションでは、地上と地下の画廊を結んでいる階段の空間がロープで繋がれていました。そのロープを辿って歩くと、階段は呼吸と温度をもった生きた空間として体験されました。綯(な)われたロープは漢字なら縄や綱です。撚(よ)られている縄や綱は撚り糸ならぬ依代となって、空間の目に見えない霊的な力を降臨させていたのかもしれないと思えるほどでした。 霊的な力と思わず述べてしまいました。けれども、ロープインスタレーションはなぜか神社の神域に入ったときのような気分をもたらすような気がするのです。ロープはあくまでも白く清楚で、しかも、凛とした冷気を漂わせています。荒々しい物質感や自己主張する存在感とはほど遠い。けれども、だからといって、方向を指示するだけの線的な記号というだけではないのです。物でありながら物でなく、記号でありながら記号ではない。物が昇華され、記号が生気を帯びている状態、そこに霊的な力が発生するのだと思います。ロープインスタレーションの空間は物でもなく記号でもなくて、呼吸と温度を孕んでいたのです。綯(な)われた縄か綱であるロープとその空間。二つが相互干渉するその空間は、神社の神域のような霊的な力に染められた呼吸と温度が梅の花か雪のように漂っていたのでした。
6 「Gold Space」についてーかぐや姫が降臨する 最後に二〇一五年から始まった「Gold Space」について述べておきます。 最初の「Gold Space」では、河原や道路脇、空き地などから集められた石やコンクリートの塊が金色で塗られていました。塊状態の物です。塊状の物は河原や道路、空き地など加賀谷さんが生活している身近な場所で、見捨てられ気づかれなくなっていたのです。閉じた塊は金色が施されて光り輝くことによって、周囲の空間に向かって開かれるのです。その場にいると、「生きて、体温をもって呼吸している空間をわたしたちは経験するのです。まるで枯れ木に花が咲いたみたいだと思ったのでした それ以後の「Gold Space」では、さらに身近な日常雑貨や竹の根など屋内や屋外の加賀谷の生活圏に存在している多数多様な物が用いられるようになった。植物採集をする牧野富太郎博士もこんなだったのかもしれないと思います。どれも、金色を施されて、シロタ画廊の壁や床、そして柱などに展示されている。それらの物をひとつひとつ見ていると、物のかすかなつぶやきが聞こえてくるような気がします。ひとつひとつでのつぶやきは全体ではざわめきになります。これは物の呼吸であり体温です。金色を施されて仮死状態だった物が息を吹きかえしているのです。この空間の雰囲気は野外でのロープインスタレーション以前の作品から感じる空間感とはテイストが違うと思います。 「Gold Space」での金色の輝きは少し内向的です。外向的な明るさが少ない分、微妙な光の陰翳がましているのです。明るさが、明るさとは逆の暗さも含んでいるのです。そのために、つぶやきとざわめき、呼吸と体温がより濃密になっているのです。 「Gold Space」での金色の物は、加賀谷さんの最初期の鉄の作品や平面の作品における「面的」な性質や、木枠やロープなどの作品での「線的」な性質とは違う「点的」な性質をもっています。「点的」な素材が使われたのは初めてです。画廊内に散りばめられた「点的」な金色に輝く物のつぶやきとざわめきを耳にし、呼吸や体温を気配と皮膚で感じ始めると、夜空の星を想いだしました。金色の物は、ロープインスタレーションのロープが霊的な力の依代であったように、夜空の星が降臨して霊的な力になる依代なのでは。そうだとしたら、竹を依代にして降臨して、最後は月に戻るかぐや姫を連想してしまいそうです。
7 おわりにー充実した空虚 わたしは最初に、加賀谷さんの金沢の作業場で「凛として柔和な空気」や残り香のような余韻や漂うようなイメージの気配を感じると述べました。二つの異なる空間が区別されていながら、逆にその二つを交流させて区別をなくしていることから生まれているのだと思います。二つの異なる空間とは木枠の内と外、表面と裏面、区分された色面と隙「間」などです。二つの異なる空間が交わることができるのは、それが木やビニール、カンヴァスなどの物質を越えた空虚になっているからです。 空間とは「空(くう)」の「間」であり、時間とは「時」の「間」です。「空」であり「間」、すなわち空間も時間も「無」なのです。だからこそ、加賀谷さんの作品の前や中に立っていると、〆縄を張られた神域の依代に神が降臨するように、名づけることが難しいある霊的な力が満ちてくるような経験をします。ひとことでいうと「充実した空虚」が現れてくるのです。「充実した空虚」には、空間の「気(木)」としての「呼吸」と、空間の「摩(間))としての温度が充満しています。空間が生きて動いて輝いているのです。だからこそ、加賀谷さんの作品はわたしたちに肩の力を抜いて、「充実した空虚」とともに、自由に、そして、ありのままに生きるように、誘いかけてくるのではないでしょうか。