見ることの誘惑 第五十一回
「非在の物質」
田中信太郎「無域」(without bounds) 1999年
真鍮 260×250×20cm 東京国立近代美術館所蔵
田中信太郎「無域」
田中信太郎の「無域」は東京、銀座の東京画廊で1999年に初めて展示された。田中自身の「マイナー・アート」とならぶ秀作だとわたしは思う。
2016年12月に東京国立近代美術館の常設展示で、三木富雄の「耳」を見た直後で、しかも、そこに展示されているとは思わなかったからなのだろうか、見た瞬間、ハッとなってしまった。
「無域」は壁に置かれた十字形。十字形の垂直軸は、展示場の壁に開けられた出入り口と平行している。十字形の水平軸は床に平行している。
遠くからだと何の変哲もない十字形に見える。
物質感を感じさせない。垂直と水平の方向だけを指示している。だから、十字形そのもの以上に、それに平行した出入り口や床を含めた背後の壁の広がりをより強く感じさせられることになる。
言い換えると、十字形はそこにそのように存在しているのに、物質感が削減されて抽象化された方向を指し示すエレメントとしての線になっているといってもいいだろう。
だから広がる壁がより強く感じられる。前景の十字形は仮象の線で、背景の壁が現実の空間になる。
田中信太郎「無域」
近づいてよく見ると印象が違ってくる。
十字形の軸の太さが違う。物質だからだ、ということがわかる。
十字形の垂直軸は床に接している。逆に言うと、壁を背にして床から立ち上がっているのだ。だから、やはり物質なのだ。
物質感のない十字形というイメージは遠のく。床に置かれた物質なんだと、あらためて実感させられるばかりだ。
ただ、ここでも、十字形は壁や床を空間として感じさせる「引き立て役」のままだ。
ただ、ここでも、十字形は壁や床を空間として感じさせる「引き立て役」のままだ。
田中信太郎「無域」 細部
さらに注意して、細部を見てみる。
水平軸は丸い断面の細い円柱、垂直軸の上は三角の断面の三角柱、そして下は正方形の四角柱。
クロスの中心部がわかりやすい。
円柱が四角柱を突き抜け、三角柱は四角柱に突き込まれている。物質相互の接合の状態だ。
しかし、わたしたちは、円柱と三角柱、四角柱を、◯、△、□だと、それぞれの切り口に即して見てしまう。そうすると、この三つの柱は抽象的な◯、△、□としてイメージされることになる。
十字形の交差部では、いかにも金属という物質の感じが強い。
にもかかわらず、非物質的な◯、△、□とイメージしてしまうと、物質は遠のいて、物質が抽象化された非物質的なエレメントとしての◯、△、□が、わたしの視野に浮上してくる。「寄る辺なき身体(物)」といった風情ではないか。
再び、十字形の交差部に目をやると、接合状態を通して、金属という物がわたしの視野を占める。エレメント◯、△、□は遠のいていく。身体(物)を失った蜃気楼のような ◯、△、□だ。
◯、△、□は、20世紀に発明された抽象の定番だ。具体的な物質の形を還元し、抽象化してエレメントにすると◯、△、□になる(*注1)。
周知のように、抽象絵画の創始者ピート・モンドリアンは、具体的な自然を、色に関してはエレメントの3原色、赤、黄、青に還元し、形では垂直と水平の二つの方向のエレメントに還元した。
つまり、自然の物質を非物質的なエレメントとしてとらえ直したのだった。
なぜそうしたのか。非物質的になればなるほど「精神性」に近づくからだ。わたしたちが生きている世界の中で、見たり、聞いたり、触ったりなどの五感で感覚できるもののすべては物質だ。
20世紀の抽象絵画がめざしたのは、感覚できる物の世界を越えた「精神性」だったのである。
物質を越える精神の勝利、20世紀のキャッチコピーだ。同時に「人間性」の高揚を意味していた。
20世紀の抽象絵画がめざしたのは、感覚できる物の世界を越えた「精神性」だったのである。
物質を越える精神の勝利、20世紀のキャッチコピーだ。同時に「人間性」の高揚を意味していた。
ピート・モンドリアン ニューヨークシティ1 1941年
油彩、着色した紙 未完成
「精神性」のもっともピュアな状態が「神」。だから「神」は見たり、聞いたり、触ったりなどの五感では感覚できない。見えないのだ。
逆に言うと、「見えない」により近い方がより「精神性」に近いということだ。
しかし、美術作品は見えなくては美術作品として通用しない。美術家のジレンマはここに集約されていた。
見えなくなれば「精神性」により近づく。でも、美術作品は「見える」ことが前提条件なので、見えなくなると美術作品ではなくなってしまう。
感覚可能な物質性と、精神性を実現する非物質性。物質性v.s.非物質性、感覚性v.s.精神性というダブルバイドから自由だった20世紀のアーティストはほとんどいない。感覚性v.s.精神性をもっとわかりやすくいいかえると、視覚性v.s.概念性ということになる。
物質をもとにして、この世の物質の中でもっとも物質から遠い非物質的な金をつくりだそうとした錬金術を想いださないわけにはいかない。
よく知られているように、視覚性v.s.概念性に解答を与えたのは1960年代のジョセフ・コスースのコンセプチュアル・アートだった。視覚性は物質のあり方に左右される。
しかし、たとえば「5」という数字は絵の具で描いても、木で構成しても、いつも指示しているのは「5」だ。
視覚性の違いをつくりだす物質はメディウム(媒体)。
ジョセフ・コスースの「三つの椅子、一つの椅子」は、メディウムは写真、物、ことばと、それぞれ違っていても、指示する概念はただ一つの「椅子」だ。
こうして、コスースは物質によるメディウムと、そのメディウムがつくりだす「見てくれ=視覚性」の違いを越えたところに概念を提示したのだった。
「見てくれ=視覚性」は「見る」で、「概念」は「わかる」ということになる。
わたしは、ここで、<感覚可能な物質性と、精神性を実現する非物質性。物質性v.s.非物質性、感覚性v.s.精神性というダブルバイド>が克服されたと考えている。
それ以後、現在にいたるまで、感覚性と精神性にかかわっていた「芸術」は崇高な場所から移動し、日常化して「アート」ということばで理解されるようになったのではないだろうか。
ジョセフ・コスース 三つの椅子、一つの椅子
物質をもとにして、この世の物質の中でもっとも物質から遠い非物質的な金をつくりだそうとした錬金術を想いださないわけにはいかない。
よく知られているように、視覚性v.s.概念性に解答を与えたのは1960年代のジョセフ・コスースのコンセプチュアル・アートだった。視覚性は物質のあり方に左右される。
しかし、たとえば「5」という数字は絵の具で描いても、木で構成しても、いつも指示しているのは「5」だ。
視覚性の違いをつくりだす物質はメディウム(媒体)。
ジョセフ・コスースの「三つの椅子、一つの椅子」は、メディウムは写真、物、ことばと、それぞれ違っていても、指示する概念はただ一つの「椅子」だ。
こうして、コスースは物質によるメディウムと、そのメディウムがつくりだす「見てくれ=視覚性」の違いを越えたところに概念を提示したのだった。
「見てくれ=視覚性」は「見る」で、「概念」は「わかる」ということになる。
わたしは、ここで、<感覚可能な物質性と、精神性を実現する非物質性。物質性v.s.非物質性、感覚性v.s.精神性というダブルバイド>が克服されたと考えている。
それ以後、現在にいたるまで、感覚性と精神性にかかわっていた「芸術」は崇高な場所から移動し、日常化して「アート」ということばで理解されるようになったのではないだろうか。
ジョセフ・コスース 三つの椅子、一つの椅子
田中信太郎の「無域」では、こうした、実在の物質がそこにあることが明らかになっていながら、非物質的で抽象的なエレメントが現れてくるのを認識しないわけにはいかない。
円柱と三角柱、四角柱は東京国立近代美術館のこの壁にある。でも、それらが円柱と三角柱、四角柱に見えているときには十字形は見えてこない。円柱と三角柱、四角柱が◯、△、□やクロスする線に変貌した時に十字形が見えてくる。
壁と床に実在している円柱と三角柱、四角柱という物質は、自分の姿を遠のかせ消していくにしたがって、◯、△、□や十字形というエレメントが現れてくる。
田中信太郎 無域
物質である円柱と三角柱、四角柱は壁と床に場所を占めている。
けれども、◯、△、□や十字形というエレメントは、具体的な壁と床から遊離して、非在の空間に存在している。
おそらく、田中信太郎はこうした事態を「無域」と名づけたのに違いない。
<感覚可能な物質性と、精神性を実現する非物質性。物質性v.s.非物質性、感覚性v.s.精神性というダブルバイド>から遠く離れていることがわかる。
田中信太郎 無域
物質である円柱と三角柱、四角柱は壁と床に場所を占めている。
けれども、◯、△、□や十字形というエレメントは、具体的な壁と床から遊離して、非在の空間に存在している。
おそらく、田中信太郎はこうした事態を「無域」と名づけたのに違いない。
<感覚可能な物質性と、精神性を実現する非物質性。物質性v.s.非物質性、感覚性v.s.精神性というダブルバイド>から遠く離れていることがわかる。
こういう言い方はどうだろうか。
「十字形」ということばは、発音された瞬間、そこにはない非在の「十字形」を降霊術のように眼前に現れ出させる。
田中信太郎の「無域」は、逆に、「十字形」が円柱と三角柱、四角柱をそこにはないものとして非在にするのである。
「無域」のすぐ後の2000年、自然から抽象したはずの◯、△、□を、もう一度、田中信太郎が、自然のなかに解放したのが「越後妻有大地の芸術祭」の機会に、松代駅から川を越えた小山の途中の棚田に設置されている「◯△□の塔と赤トンボ」(*注2)だ。
ホワイトキューブの美術館という場所で生き生きとしているのが「無域」だとしたら、「◯△□の塔と赤トンボ」はサイトスペシフィックな場所で輝いている。
「◯△□の塔と赤トンボ」は、物質としては錆びていきながら、抽象的なエレメントとしては、いまもなお大空で輝きつづけているだろう。
すぐそばの河口龍夫の、大地と空はくっついているのだということを実感させる「関係・大地—北斗七星」の大地=天空の鉄板の「草=星」と同じように。
「無域」のすぐ後の2000年、自然から抽象したはずの◯、△、□を、もう一度、田中信太郎が、自然のなかに解放したのが「越後妻有大地の芸術祭」の機会に、松代駅から川を越えた小山の途中の棚田に設置されている「◯△□の塔と赤トンボ」(*注2)だ。
ホワイトキューブの美術館という場所で生き生きとしているのが「無域」だとしたら、「◯△□の塔と赤トンボ」はサイトスペシフィックな場所で輝いている。
「◯△□の塔と赤トンボ」は、物質としては錆びていきながら、抽象的なエレメントとしては、いまもなお大空で輝きつづけているだろう。
すぐそばの河口龍夫の、大地と空はくっついているのだということを実感させる「関係・大地—北斗七星」の大地=天空の鉄板の「草=星」と同じように。
田中信太郎 ◯△□の塔と赤トンボ *遠景
「◯△□の塔と赤トンボ」地点から松代駅方面を見る
河口龍夫の「関係・大地—北斗七星」
(はやみ たかし)
*注1)20世紀抽象の定番、◯△□は、セザンヌの球、円錐、円筒とはほとんど関係がないことは注意しておきたい。セザンヌの球、円錐、円筒は、還元的なエレメンタルな立体のことではない。物を見るにときには、視野の中心、つまり目にもっとも近い頂点ができて、その頂点から曲面状に物が遠のいていく。これは、物が立方体だろうが、壁や床のような平面であろうが同じ。球、円錐、円筒はすべて曲面状だ。お椀を伏せた状態をイメージしてみたい。平らな床もある部分を視野に入れるとその中心が頂点になって周りは同心円を描くように遠のいていく。だから、セザンヌの絵画はゴツゴツ、デコボコしているように感じられる。絵画のなかにいくつも頂点があるからだ。だから、セザンヌの球、円錐、円筒は、物や風景の見え方なのではないだろうか。
*注2)田中信太郎 「◯△□の塔と赤トンボ」2000年 鉄、ステンレス、ウレタン塗装 1600×500×30cm 越後妻有りトリエンナーレ 十日町市
*「無域」は東京国立近代美術館常設展示から取材しました。
*「越後妻有大地の芸術祭」の画像は現地で撮影した写真を使用しました。
*「越後妻有大地の芸術祭」の画像は現地で撮影した写真を使用しました。