2016年5月10日火曜日

気づきの瞬間ーカラヴァッジョ「洗礼者聖ヨハネ」


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ「洗礼者聖ヨハネ」

            カラヴァッジョ「洗礼者聖ヨハネ」1602
               ローマ コルシーニ宮国立古典美術館所蔵

ありふれた若者が大木の根本で、ふと身をのけぞらせている。両腕と右脚は上半身と同じ方向、左側に向かっている。突然、緊張して体に力がみなぎった一瞬といった雰囲気だ。若者はだれで、何に驚いているのだろうか。
おもわずアルキメデスのことば「エウレカ!エウレカ!」を想いだす。

のけぞった体の方向に十字架のついた葦の杖と水容器。洗礼者聖ヨハネを象徴する持ち物だ。驚いた視線の先には何が・・・。洗礼者聖ヨハネが、将来、洗礼を施すキリストを示唆する仔羊が描かれていたらしい。今は暗闇におおわれている。
仔羊にすでに気づいているのではない。いままさに気づこうとする瞬間。だから仔羊は、まだ、現れていない暗闇なのだ。存在物としては非在のままでイエスが生成される。神は物ではない。目に見えない精神なのだから。
静謐な時間の流れの均衡が破られるクライマックスが目前に迫っている。身震いする決定的瞬間の直前、惰性的な認識が感覚的な気づき、すなわち、発見によって破られ、イノベーションが作動する予兆がとらえられているのである。

カラヴァッジョの絵画はこうした劇的なダイナミズムによって、わたしたちの感情を高揚させる。

               伊藤若冲 「南天雄鶏図」部分

                伊藤若冲 「大雄鶏図」部分

伊藤若冲の「動植綵絵」のなかの「南天雄鶏図」や「大雄鶏図」、さらに、篠山紀信の「三宅一生」を連想させるのは、こうしたダイナミズムがもたらす感情の高揚のせいなのだろう。
              篠山紀信 「三宅一生」

感情の高揚は、日々、更新されなくては惰性化してしまって、感情の高揚ではなくて感情の虚脱になってしまう。
石津ちひろの詩のように「あしたのあたしは/あたらしいあたし/あたしらしいあたし あたしのあしたは/あたらしいあした/あたしらしいあした」なのだから。
新しい明日、明日は新しい。このとき初めて、感情の高揚が高揚として日々高められるのだ。

           ルノワール 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

モダニズムのモダニティ(近代性)とは、おそらくこういう高揚に関わっている。
永遠に続くかと思いたくなるような日常生活での感情の高揚を描いたのがオーギュスト・ルノワールだ。「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」には、そうした、日々、新しくあることによってのみ持続される感情の高揚が描かれている。
カラヴァッジョの日常版ではないだろうか。
(早見 堯)

※このテキストは次の展覧会と書籍から取材しました。
1.「カラヴァッジョ展」国立西洋美術館 201631日〜612
2.「生誕300周年記念 若冲展」東京都美術館 2016422日〜524
3.「篠山紀信 写真力展」東京・オペラシティアートギャラリー 2012103日〜1224
4.「あしたのあたしはあたらしいあたし」石津ちひろ著 大橋歩イラスト 理論社
5.「オルセー美術館・オランジュリー美術館 ルノワール展」国立新美術館 20164月27日〜8月22日