2015年8月10日月曜日

「空間の肌理」は今・・・ー加賀谷武の作品を通覧しながら


加賀谷武は、以前、東京で活動していたが、今は、故郷の富山県小矢部市に転居して制作と発表を行っている。近年は、野外の2カ所の間にロープを張るサイトスペシフィックな作品をいろんな所で設置、発表している。
小矢部というと田圃の中に家屋がぽつりぽつりと離れて散在する「散居」で有名な砺波平野の中心に位置する田園地帯だ。おまけに、公共建築物がベルサイユ宮殿風だったり、郵便局のそばに「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスの彫像が立っているなど、街路でポスト・モダンな複合的体験を味わえるおもしろい町だ。日光江戸村が生活の現場に登場しているという感じだ。
東京の猛暑の日々に、もしかしたら涼やかな風が通り抜けているかも知れない小矢部の散居と、シュール&タイムスリップの建造物を想い浮かべて、旧知の加賀谷武に触れてみたい。

加賀谷武が作品集をまとめて一冊の本にすることになった。この秋、刊行される。わたしも、短文を寄稿することになって、一ヶ月前くらいに原稿を書いた。タイトルは「輝く背景から活性化された虚空間への展開」。
古くから知っているアーティストについて、あらためて作品を想いおこしながら考えてみると、それまでとは違う発見がある。同じ作品が今まで気づかなかった姿で現れてくる。それがとても楽しい。

加賀谷武については、わたしは1976年には「美術手帖」に作家論を書いている。その後、1978年、シロタ画廊での個展で発表された「間」について、「空間の肌理」というタイトルで短文を書いたことがある。このときの作品はとても印象的だ。
画面を分割している直線は両側の面からの塗り残しになっている。ミニマリズム風な外観だ。一つの画面があってそれがいくつかに分割されたともいえるし、逆に、いくつかの断片が組み合わされて一つの矩形の画面を形成しているともいえる。
そのあたりのことを、今回の作品集では次のように書いた。多少長いが引用してみたい。

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「間」は塗り残しの隙間が重要だ。限定された矩形に不規則な形のピースがジグゾーパズル風に組み合わされているとみなすことができる。逆から考えれば矩形がいくつかに分割されていることになる。前者はピースという部分に焦点をあて、後者は矩形という全体に焦点をあてた見方だ。いずれにしても、隙間を挟んで、ピースとピースはくっつきたいのにくっつけない、あるいは、分割された面と面は離れたいのに離れられないといった趣を呈していた。その結果、表面の微妙な震動が生まれていた。それが虚空間、背景の輝きだ。

           加賀谷武 「間」シロタ画廊展示光景 1978年

 アンリ・マチスがイシー==ムーリノで描いた塗り残しの隙間で物体の輪郭線をつくった「赤のアトリエ(赤のパネル)」とくらべてみるとわかりやすい。物体はすべて画面の周囲に寄せられ、本来のアトリエを描いた絵画ならもっとも重要なモデルなどの物体が置かれる中央部分にはなにもない。いや、なにもないのではない。なにも置かれていない背景の床がある。モデルなどの物体は実空間、それ以外の空虚な空間は虚空間。マチスのアトリエの絵画は、虚空間、すなわち前景に対する背景、あるいは、「図」に対する「地」が主役なのだ。ここでは虚空間、背景は華々しく輝きながら画面の左右上下に広がっている。

           アンリ・マチス「赤のアトリエ」1911年

「間」も、そうした背景、「地」、つまり虚空間を表明している。当時の用語なら「カラー・フィールド(色彩の場)」ということになる。「図」、すなわち形を表現するのではないことがポイントだ。ここまでなら、それまでの絵画的な輝く背景と同じだ。もっと別のことが起こっているはずだ。

 「間」にしても、「赤のアトリエ」にしても、背景の輝きは塗り残しの隙間から生まれている。隙間はプラスとプラス、あるいはマイナスとマイナスの磁極が接近した時のように面を震動させるのだ。隙間を中心にして磁場が生じている。隙間は面を息づかせる力を帯びた線、すなわち力線なのである。
 別な言い方もできる。隙間は面と面の間のネガティブな塗り残しではなく、空虚な空間(面)を震わせるポジティブな仕切り線なのだ。こうした隙間のネガからポジへの転換こそが、現在の加賀谷の重要な起動力になっている。塗り残しの隙間はポジティブな力線として獲得し直されたのだ。
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加賀谷の長いキャリア全体を通観して書いた文の一部分なので、全体を見ないで部分だけ抜粋しても理解されないかも知れない。
重要なポイントは加賀谷がそれまで「面的なもの」を中心にして作品をつくってきていたのが、1978年の「間」以後、「線的なもの」が中心になる。そして、わたしの文では、「線的なもの」が、近年のサイトスペシフィックな野外でのロープのインスタレーションに展開したのだというストーリーになっている。

つけ加えておくと、ニューヨーク近代美術館に所蔵されているマチスの「赤のアトリエ(赤のパネル)」の塗り残しによる事物の輪郭線は、フランク・ステラのデビュー作「ブラック・ペインティング」以後、銅塗料やアルミ塗料の絵画で展開したストライプの絵画でのストライプとストライプとの隙間に関係があることは、何度か指摘されたことがある。図版だけで「ブラック・ペインティング」を見ると、塗り残しの隙間部分(コーティングされていないロー・キャンバスの地肌)が描かれていると思われることがよくあった。暗い黒のストライプよりも、明るい隙間が手前にでてくるように見えるからだ。

もう一つ重要なのは、この引用にでてくることば、「実空間(物体)」に対する「虚空間」、あるいは「前景」に対する「背景」、そして「図」に対する「地」などによって説明されている作品の様子だ。
こうしたことがらは、20世紀の新発明「アブストラクション」のテーマだった。見えているものを支えて、見えているように存在させている見えないものへの関心、というと、凡庸すぎるが、おおむね間違ってはいない。
20世紀が発見したコンセプト「無意識」や「構造」も同じように考えることができる。顕在的なものよりも潜在的なものの方がより重要な働きをしているのである。「アブストラクション」はこういう文脈で考えるとわかりやすい。
こうしたポジションから眺めてみると、加賀谷武の作品をわたしは「アブストラクション」として論じたということになる。
(はやみ たかし)
※加賀谷武作品集は今秋、ギャラリー・ステーションから発行されます。