2015年7月11日土曜日

絵画から遠く離れることはできるのかー榎倉康二

見ることの誘惑 第38回

絵画から遠く離れることはできるのかー榎倉康二

榎倉康二「Drawing B-No.19 」
1981年 ボイル油、パステルコンテ、紙 110×200cm
高橋龍太郎コレクション

          
  旧知の北村周一の展覧会が開催されたのは、東京、等々力のスペース23℃だった。その展覧会「フラッグ<フェンスぎりぎり> 素地への遡行」展を訪れたのは6月初めだった。スペース23℃は20年前に亡くなったアーティスト榎倉康二の元アトリエだ。

 北村の展示は、その直前に沼津で開催された回顧展のミニ展示といった趣だったようだ。だが、選び抜かれた少数の作品が展示されていて、北村のアーティストとしての本格的な出発点になる絵画を振り返りながら現在の絵画を鮮明にクローズアップする展示だった。
 出発点になる絵画では画面の真ん中にぱっくり口を開いた空虚な隙間が広がっている。それが、徐々に、空間的なイリュージョンを失って支持体の画面にぴったり密着していく。長年に渡るそうした思考と制作のプロセスが手に取るようにわかる。絵画はイメージや空間的イリュージョンが現れてくる場ではなくて、支持体や絵具とアーティストの身体的な描く行為とが共奏する場になっている。
 暗く閉ざされているかのような画面を注視していると、わたし自身が、今、ここで見ているという、その見ている行為と向き合っている感じになる。変な言い方だが、わたしが見ているものが見えてくる、と言ったらいいのだろうか。説明しがたい同語反復状態になるのだった。
 こうした見方は、観点を変えれば、あるものを〜として「見立てる」ことを断念しているのだと言ってもいい。

 榎倉康二の「Drawing B-No.19」も展示されていた、東京オペラシティアートギャラリーで開催され、6月末で終了した「ミラー・ニューロン」展の加藤美佳「パンジーズ」や樫木知子「風鈴」、村瀬恭子の二種類の「Lights in the Forest」などの絵画と比較すると、榎倉の作品もそうだが、北村の絵画がもたらす経験はずいぶん違っているとあらためて思う。

                 加藤美佳「パンジーズ」

                     樫木知子「風鈴」

               村瀬恭子「Lights in the Forest(standing)

 彼女たちの絵画では、絵具の物質感を感じさせない磨きぬかれた絵肌が特徴的だった。 圧縮された薄い厚みの空間に透明で硬質なフィルターが幾層にも重ねられているかのようだ。絵具の物質性や描く行為の身体性、そして匂いや触感などの一切を排除した雰囲気のなかに不思議なドラマが次々と溢れ出してくる。

 北村の展示会場のスペース23℃で雨模様の庭に目をやった時、ふっと想い出されることがあった。
 ちょうど40年前、1975年だったようだ。雨の日だったと記憶している。等々力以前に榎倉康二が住んでいた奥沢のアトリエを訪れたときのことだ。
 榎倉は「点展」と称して、高山登や八田淳、長重之などとそれぞれの自宅で同時期に作品展示をしていた。田園調布の八田淳の芝生の庭を訪ねた後、榎倉の自宅に入った。父親が使っていたという庭に突き出したアトリエから、庭の柿の木に沿って上っているホースから水がはい落ちている。木の内側で起こっている吸い上げられる地中の水の様子が位相変換のように逆方向で展開されている。「予兆—柿の木・水」というタイトルだったようだ。
 地中から吸い上げられた水が空中に蒸発し、その後、雨になって降り注いでくる。そういう自然のアクションを感じさせられた。だから、雨は降っていないのに雨の日だと思い込んでいるのかもしれない。
 アトリエには先客がいた。田窪恭治だ。いくつかの国際展に参加した後、フランスのノルマンディー礼拝堂再生プロジェクトに数年間従事したのはよく知られている。田窪は冗談半分に『榎倉さんのデッサンは、雑誌「アトリエ」で芸大生A君のデッサンと紹介されていて、憧れの的だったんだから・・・』とつぶやいて、照れたように少し笑った。
 アクションする柿の木のイメージ、そして雨とデッサンはわたしの中で榎倉康二の想い出トライアングルを構成している。

 なんだか、前置きが長い。「失われた時を求めて」の紅茶に浸されたマドレーヌの一かけらから広がる記憶の世界ではないか。もとに戻ろう。

「ミラー・ニューロン」展の榎倉の「Drawing B-No.19」は、紙の片側から油の染みが、反対側からはコンテの痕跡が、それぞれ中央に向かって広がっていく。油と手の痕跡が動いている現在進行形といった感じだ。絵画を形づくる色と形という媒介を飛び越えて、物質の動きと人の身体の動きが紙の上で自然に、素朴に展開されている。
 ほぼ同じ頃に制作され、第一回目のハラ・アニュアルにだされていた作品はわたしの記憶に深く刻み込まれている。壁の上で斜めに交差する長方形のカンヴァス地の布。一つの布は壁から床まで届いている。油の染みが布から布に滲みているかのようだった。物質のアクションの現在進行形だ。わたしが立っている床までカンヴァスがたれているので、現実の出来事として感じられる。
 先の三人の女子アーティストの絵画とは違って、物質感と身体性、そして匂いと触感が巧みに処理されている。軽井沢のセゾン現代美術館にあるアンゼルム・キーファー「オーストリア皇妃エリザベート」のような、むせ返る匂いと触感とは違って、洗練されている。

 わたしは、1978年の雑誌「みづゑ」の連載対談「現代との対話」で榎倉の作品を媒体や媒介性がないとしつこく追求したことがあった。榎倉はとても鷹揚に構えて応答してくれた。
「媒体や媒介性がない」というのは、色と形が問題にされていない作品だとか、絵画や彫刻といった「芸術媒体」としてのかたちをなしていないということだ。その代わりに、色と形の物質的な元になる材料の物質感や、あるいは、色と形が色と形としてかたちを成す、たとえば、「描く」行為のような身体性が前面に現れている。建築界でのノーデザインの材料還元主義に似ている。
 わたしはそうした現代美術の動向を「無媒介の直接性」とか、物の強さに依存した作品として、当時、批判的に論じたこともあった。

 1910年代の後半、ピート・モンドリアンは世界を、色に関しては三原色と黒灰白の無彩色、形では垂直と水平に還元した。物を本質的な要素だけに還元するエレメンタリズム(要素主義)だ。20世紀の抽象絵画の一つの典型はこうして誕生した。
 モンドリアンのような還元的な思考が、絵画を成り立たせている支持体や絵具と「描く」ことのレベルで展開されると、物質と身体(身体のアクション)になる。
 物質(支持体と絵具)や身体(身体のアクション)を、色と形、あるいは絵画として「見立てる」ことをやめたのである。

 当時の現代美術は多かれ少なかれ、こうしたポジションからアプローチされていた。
 実際、1970年代には、絵画や彫刻とは言わないで、それらの物質的基盤に注視した「平面」や「立体」と言われるようになったのである。
 平面上になにかを表現する場合、絵画的な色や形を飛び越えてしまったら、物質と身体、それしかないだろうと、今なら、逆に、突っこんでみたくなる。
 榎倉の「Drawing B-No.19」のような作品は、そうした現代美術の典型的な作品だった。

 ところで、視点を変えて、色と形、そして絵画という芸術媒体を越えて物質と身体を要とする作品が、油とコンテを材料にしていることに注目してみたい。
 油は油絵の具、さらに油絵と結びつく。コンテは、当然、描写やデッサンを想い起こさせる。ハラ・アニュアルの作品がカンヴァス地の布に展開されていたことも想いおこしておきたい。
 油絵の具では、絵具を溶くテレピン油がカンヴァスに染みこまないようにカンヴァスはコーティングされている。デッサンはコンテの痕跡をランダムに広がらせるのではなく、手でコントロールして形にまとめあげなくてはならない。
 榎倉は油絵やデッサンの材料を人工的にコントロールすることなく、物質の本性の赴くままに野性として解放したのだ。
 別なポジションから考えれば、油絵やデッサンのテクニックを放棄したとも言える。
 しかし、にもかかわらず、ここには「絵画」が遠くこだましてはいないだろうか。絵画から縁を切って遠く離れたはずが、無意識に別れても好きな人状態に陥ってしまっていたと言ってみたくなる。

 当時、「絵画は死んだ」が常套句だった。でも、絵画は死ぬことはなかった。仮死の装いをしていただけなのではなかったのだろうか。色と形、あるいは絵画を葬ったと思ったその瞬間、絵画は強迫観念となってアーティストをとらえていた。
 したがって、物質と身体は、色と形や絵画の墓場から掘り起こされた骨ではなかった。墓場に咲いた花だったのだ。1980年代には、世界中で広範に、色と形、そして絵画が再び咲き乱れ始めたのだから。

(はやみ たかし)

  このテキストは次の展覧会で取材しました。画像は展覧会図録から借用しています。
    北村周一「フラッグ<フェンスぎりぎり> 素地への遡行」 2015年5月29日〜6月21日 
                                                                東京 スペース23℃
「高橋コレクション展 ミラー・ニューロン」2015418日〜628日 東京オペラシティアートギャラリー