2014年10月12日日曜日

S状曲線にみる日本の美的テイスト 渓斎英泉、菱田春草 歌川広重

菱田春草「柿に烏」1910年 絹本彩色 軸 115×50.1cm
渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」1830-40年  76×25cm ボストン美術館 

菱田春草「柿に烏」1910年

菱田春草展で「柿に烏」や「柿に猫」などを見ているうちに、ふと既視感にとらえられた。縦長の掛け軸画面型なのだが、モチーフが画面の左右の縁でカットされている。
最近、どこかで見たなあと思った。

しばらくして想いだした。ジャポニスム展で見た渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」だ。
S状に屈曲する打掛けの腰のあたりで、登る鯉と下る鯉とが交差する。登って龍になる登龍門の謂れ通り、花魁にまで登りつめた鯉する女子の気迫なのだろうか。圧倒されるほかない。
画面の縁を越えて広がるイメージと空間。当然、奥行きは抑圧される。日本の絵画の伝統的なセンスだ。縦長の画面型は効果的である。

渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」1830-40年

 クレメント・グリンバーグは、セザンヌの絵画(「りんごとナフキン」損保ジャパン日本興亜美術館)は画面の縁の内側で終わっていると書いている。しかし、ポロックについては、ポロック(デュッセルドルフのノルトラインウエストファーレン美術館の「32番」)の願望は限定された画面から自由になることだったと述べている。画面の限界である縁を壊してしまいたかったのだ。
グリーンバーグのこういう記述に触れると、ルーヴルにあるミケランジェロの瀕死の奴隷」を想いださないわけにはいかない。肉体という牢獄に閉じ込められた人間の魂が、死の間際にやっと肉体から解放されて自由になる。でも、それは束の間。その次には死にとらえられてしまう。肉体と精神の葛藤の場として人間の悲劇的な英雄性。ミケランジェロの生涯の主題だ。
ポロックがミケランジェロに重なる。

物理的な実在であるほかない絵画。モダン・アートは絵画をこう認識するようになった。そう認識すればするほど、有限な画面の縁をどう克服するか、どうやって自由になるか。モダン・アートの絵画の主要なテーマの一つだった。宇宙空間よりも広い絵画をつくることは不可能だ。だから、これは永遠のプロブレマティーク(解決不可能な難問)だと思われた。

渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」から、西欧のヘレニズムやマニエリスムでしばしば使われているフィーグラ・セルペンティナータ(蛇状体)を連想しないわけにはいかない。
フィレンツェ、シニョーリア広場の回廊にレプリカで設置されているジャンボローニヤ「サビニの女たちの略奪」はどうだろう。
ローマ男とサビニ女が上下で葛藤しながら鯉のように滝を螺旋状に登っていく。二次元平面でのS状曲線が三次元空間で螺旋状に展開されているわけだ。幹に絡みつく蔦のようでもある。だから、見ているわれわれが立っている現実の空間を巻き込む迫力は感じられなかったことを記憶している。

セルペンティナータの絵画でもっとも知られているのはパルミジアニーノの「首の長い聖母」。
S状曲線や中景を欠いた近景と遠景というめくるめく距離の短縮にもかかわらず、マリアは画面左右の中心に位置して、聖母子は画面の中におさまっている。


S状曲線が風景画で展開されると、「大かわあたけの夕立」や「両国橋」などの「江戸名所百景」で歌川広重が多用しているジグザグのZ型構図になる。Z型を刺し貫く雨が効果的だ。向こう岸の安宅では直角に交差している。


 限定された画面内の空間や中心という強迫観念から逃れられないのが西洋のセンスなのではないか。
したがって、シンメトリーを崩した場合には、古代ギリシア以来のコントラポストでバランスをとる必要があった。
今、開催中のチュリッヒ国立美術館展でモンドリアンの「赤、黄、青のコンポジション」(1930)を見たときにも、こういうことを感じた。
チュリッヒ国立美術館展に並べられている作品のなかで、モンドリアンは飛び抜けてすばらしい。ほかの絵画が、たわいもないイメージのゲームに耽っているかのようにさえ思われたほどだ。精神性の高さをあらためて実感させられた。精神性とは、いうまでもなく物質性や感覚性の反対だ。有限な「もの」、無限の「精神」ということだ。


しかし、モンドリアンの絵画の基本的なセンスはアンバランスのバランス、すなわち、コントラポストの調和だ。
対角線上に向かいあう大きな赤い面と小さな青の面。上に大きな赤い面があることに注意したい。
黒の仕切り線は赤い面と青い面との接点でだけ交わっている。左右上下の中心がはずされた交点。アンバランスになっている。
その交点を支点にして、赤と青がシーソーのように激しく揺れて傾く。ところが、このアンバランスをケアして、青に協同するのが白や黄の面だ。それらが一緒になって赤に対抗してバランスをとり直す。
空気の揺れに連動して動くことで、見えない周囲の空間を見えるようにしたモビールのコールダーに向かって、モンドリアンは「わたしの絵は動いている」と言ったことがある。それは、こうしたコントラポスト風なアンバランスのバランスによる視覚的な動きを指していた。

モンドリアンのアンバランスのバランスを批判したのは、よく知られているように、「赤、黄、青なんか怖くないシリーズでのバーネット・ニューマンだ。ニューマンは、人間中心主義的な調和のセンスを超克して、崇高性を実現するためにシンメトリーを使用した。
いずれにしても、モンドリアンにとっても、ニューマンにとっても、限定された有限な画面や中心をどう脱臼するかは主要なテーマだったことには違いはない。

渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」とか、菱田春草の「柿に烏」や「柿に猫」、見ることができなかった「黒き猫」なども、画面型や画面の縁、中心といったポジションから見直してみると、さらにいっそう興味深い。



菱田春草「柿に烏」は、秋の今頃だろうか、極端に縦長の画面の下部では、太い幹が下から右上に向かって曲線を描きながら画面の縁を越えていく。
画面上部では、画面の縁の外、右側から侵入した枝が、下の太い幹の曲線を繰り返しながら左下に向かっている。たった今、舞い降りたばかりなのだろう、黒い烏の重みで枝がしなだれている。

通常なら画面の下部の近くと、同じく、通常なら遠くである画面上部とは、正確に呼応して遠近感を退け、画面縁でのモチーフのカットと相まって、左右に広がる平面的な空間感が強調されている。日本の伝統的な下から上に面を積み上げる構図の新しいヴァージョンだ。
常ならない日常のなにげない動きの一瞬。移ろっていくものの束の間の動き。
そうした流れいく日々のとるに足りない現実の片隅での出来事が、画面の縁でカットされた柿の木や、中心をずされた構図で巧みにとらえられている。
中心という呪縛にとらわれていないばかりか、さらに、画面型をさりげなく巧妙に使いこなしている。

考えてみると、西洋の伝統的な構図のセンスであるアンバランスのバランスやシンメトリー、中心といったアイテムは、こういってよければ、フォーマル・イメージをつくりだす方法だといえる。正装スタイルだ。
ラファエルロのルーヴルにある「美しき女庭師の聖母」を想いおこせば十分。
日本の伝統的な構図のセンスである、シンメトリーの反対概念というのではないアシンメトリー、脱中心性などは、いわば、カジュアル・イメージ。西洋風にいえばスケッチのセンスに近い。
カジュアル・イメージとは日常的なセンス、正装とは反対の着流し風、現実に密着した感じ方ということでもある。

こんなことに思いをめぐらすのに示唆的な文がある。
クロード・レヴィ=ストロースの「プッサンを見ながら」だ。ジャン=ドミニク・アングルの引用をまじえて次のように書かれている。

「歴史画家は種一般を表現する」のに対して、日本人画家は存在をその一瞬の動きのなかで、その個別性のなかで捉えようとする。その点で、偶然的なもの、移ろいやすいものを追い求める。

レヴィ=ストロースのいう日本人画家は木版画家、すなわち広重や北斎などの浮世絵師を念頭においている。
「種一般」を普遍性、「個別性」を特殊性におきかえるとわかりやすい。
イタリア盛期ルネサンスを説明する簡単明瞭な一語、ラテン語のRATIOは正しい比例を意味している。プロポーションの考え方の原型だ。reasonの語源でもある。
RATIOは西洋の伝統的な文化センスに拡張して適用してもおかしくない。
RATIOの典型は、一点透視図法や黄金比だ。これほど普遍的な方式が考えられるだろうか。ル・コルビジュエのモデュロールも西洋固有の普遍的原理のバリエーションだ。

三浦雅士も同じように、西洋が普遍性を求め続けてきたと、「大航海」だっただろうか、雑誌の対談で述べていたのを記憶している。
日本の伝統的なセンスは、こうした普遍性に関心をもったことはほとんどなかったのではないだろうか。
普遍性への欲望とは、ものごとを現実から引き離して概念化したり、観念にまで抽象化してしまう意志のことだ。
感覚的なものを克服して精神的なものを求めるのが普遍性への欲望でもある。
日本型のセンスは普遍性を無視することで、生き生きとした現実の息づき、逆にいえば、その場、その時限りのエフェメラな現象をとらえることができた。
感覚的なものにとどまり続けるのだ。


渓斎英泉「鯉の滝登り打掛の花魁」とか、菱田春草展で「柿に烏」や「柿に猫」、まだ展示されていなかった「黒き猫」(永青文庫)などは、画面型や画面の縁、中心について、わたしの思いをうながした。

極端に縦長の画面型や画面の縁でのカット、そして脱中心のアシンメトリーといった日本型センスは、現実を普遍化しない装置として機能している。現実を濾過して純化することなく、そのままで受け入れようとしているのだ。
クロード・レヴィ=ストロースが指摘した個別性や偶然的なもの、移ろいやすいものへの関心と表裏一体になっているのである。
河合隼雄が日本の神話や物語を例にとりながら、日本人の問題解決の流儀を「美的(感覚的)解決」だと指摘したのも、こうしたことに関わっている。
(はやみ たかし)
※ジャポニスム展(世田谷美術館、9月まで開催されていました)、菱田春草展(東京国立近代美術館、開催中)、チューリッヒ国立美術館展(国立新美術館、開催中)から取材しました。





2014年9月12日金曜日

ウジェーヌ・ブーダン 時の流れをさかのぼって

ウジェーヌ・ブーダン
「川沿いの牛の群れ」 
油彩 カンヴァス 32×46,5cm
ル・アーヴル アンドレ・マルロー美術館



「ノルマンディー展 近代風景画のはじまり」、東京、新宿にある東郷青児記念・損保ジャパン日本興亜美術館で開催中です。

フランスのノルマンディー地方というと、第二次世界大戦やジャン・フランソワ・ミレーでとりわけ知られている。
ノルマンディー半島のつけ根ともいえるセーヌ川の流域のル・アーヴルやオンフルール、サン・シメオン、サン・タドレス、トゥルーヴィルなどの町は、野外での「近代的」レジャーと印象派とによって、フランスの「近代生活」の様子が、日本のわたしたちにも知られるようになった。
これらのセーヌ川の流域の町は、いまでも印象主義の聖地だ。
かつてセーヌ川の潮津波に乗ってノルマン人がパリに遡上しようとしたように、19世紀半ばには、印象主義の潮津波がル・アーヴルやオンフルールからパリ近郊へと逆流してきたのだった。

この展覧会は、ノルマンディーで新たに展開された「近代生活」と従来の田園生活とが二重映しになって提示されている。
19世紀以後の風景画は、伝統的な自然主義絵画から、感覚可能な「もの」を描くレアリスムや、感覚可能な究極は「もの」ではなく光だったとする「目の中で生産される色彩」の発見の影響を受けた印象主義、そして、新印象主義を経て20世紀初頭のフォーヴィスムへの流れを、絵画メディアの特性にもとづいた、自律的で還元的な進化のプロセスとしてとらえられてきた。それが「近代化」だった。

いわゆる筆触分割=色彩分割による細切れのタッチによる小面は、フォーヴィスムにいたって大きくフラットな色面のコントラストとして実現されることになった。そのとき、近代絵画は自律したというのが絵画の言説空間の中で大きな物語となったのである。
他の芸術メディアにはない絵画の固有の特性が、絵具のタッチ、限定された画面型、平面性の三位一体にあるとみなす考え方にもとづいている。
こうした「絵画の進化論的な流れ」はわかりやすく辻褄があっているように思われる。モダニズムの言説空間では長い間、説得力ある絵画物語として機能してきたのはそのためだ。
しかし、「絵画の進化論的な流れ」という近代絵画の神話は、ロザリンド・クラウスやハル・フォスターのみならず、今では、多くの論者によってディスロケーション(脱臼=転位)されているのは周知のことだ。

わたしは、今回、ブーダンの絵画に、とても魅力的ななにごとかを見いだした。
たとえば、ブーダンの牛の絵の前で、2006年、国立国際美術館で開催されたエッセンシャル・ペインティング展のセシリー・ブラウンやリュック・タイマンスを素朴に連想しないわけにはいかなかった。当然、17世紀のパウル・ポッターの時間が停止した空間の中の雄牛も想いおこしたのだが。
こんなことから、ブーダンをきっかけにして、「描く」ことについて「近代絵画」の言説を批判的に回顧しながら再考してみるのは興味深いことだと考えるようになった。

近代生活を「いま、ここ」のポジションから描いたブーダンや印象主義者たちは、どうして細切れのタッチやストロークを用いたのか。
濁っていない明るい色彩を画面上に実現するためだとか、現実から受けた感覚、すなわち色彩の同時対照のような目の中で生産される束の間の網膜現象を即興的に素早く画面に定着させるためだとかと説明されてきた。
敷衍すれば、目の前の現実から、手の下にある画面や絵の具というメディアへ、つまり描くべき対象から描かれるべき絵画そのものへと関心が移動したのだと考えられてきた。モダニズムの王道的言説である。

「近代化」のプロセスにおいて、対象から絵画そのものへと「主題」が移動したということだ。
印象主義から新印象主義、ポスト印象主義、フォーヴィスムを経て、その途中で象徴主義をミックスすれば、「自然から抽象へ」というモンドリアンのキーワードも素直に飲みこみたくなる。実際、わたしたちはそう理解してきた。
だから、目に見える現実の再現から、目に見えない精神性の表現という20世紀絵画の大文字の主題は、モダニズムの進化の必然的帰結だということになる。

けれども、こうしたモダニズムの文脈とは違う場面もあった。
たとえば、アメリカのモダニズムの一つの到達点だとみなされているバーネット・ニューマンでさえこんなことを記している。
カオスに渦巻く自然を前に畏怖の感情にとらえられた最初の人間は、地面に一本の線を描いた。
「描く」ことの始まりは魔術的なもので、再現的なものではなかったのだと主張している。
「自然から抽象へ」あるいは「再現から絵画それ自体へ」ではなく、「抽象から自然へ」あるいは「描くことから再現や絵画へ」と言った方が人の「絵」の進化の説明として説得力があるかも知れない。

ブーダンをモダニズムの文脈からはずすと、画面につけたタッチが、他のタッチとの関係で、ある場所では牛になり、別な場所では雲や空になっているだけなのだと考えることができる。描くことはほとんど降霊術的な行為ではないか。
一つのタッチが、一つのタッチのままで、イメージを受肉する瞬間があるということだ。
ダブルネスとか二重像、あるいはメタファー、さらに意味の方向を違えて、アナグラムということもできるのだろうか。
絵画に近づいてみるとタッチの集積だが、離れて遠くから見ると形象が見えてくるといったこととは異質なことがらだ。

パリコミューンのころ、クロード・モネが妻子とともにイギリスに向かう前に、トゥルーヴィル海岸で描いたストロークによる習作的な絵画も、「ノルマンディー展」で2点展示されている。それを眺めているとこんなことが想いおこされた。
ニューヨーク近代美術館のピーター・ガラシは写真の始まりについて述べながら、伝統的な風景画から印象主義の風景画への推移を、広く当時の西欧の風景画全般を視野にいれて「構想画からスケッチへ」、言い換えれば「フォーマルからカジュアルへ」とでもいえるような見方を提示したことがあった。それはそれで十分説得力があった。
でも、そうした見方を越えて、モネのこれらの絵画は、描くことの原初の地点への退行ではないのだろうかとさえ思わせられた。

ブーダンやモネの絵画のタッチやストロークは、ジャン・フォートリエなどの1950年代のアート・シーンを席巻したアンフォルメルの「ジェスト(身振り)とマチエール(物質)」とは違っていることは、誤解のないようにつけ加えておかなくてはならない。

「ノルマンディー展 近代風景画のはじまり」は、主催者の意図とは違って、印象主義に始まりフォーヴィスムやキュビスムによって20世紀初頭には早くも完成されていたモダニズム絵画の自律性という文脈とか、近代生活、「いま、ここ」といった定番ボキャブラリーを括弧にいれて、絵画での「近代」の始まりを見直さなくてはならないとさらにいっそう感じたのだった。
(はやみ たかし)
※「ノルマンディー展 近代風景画のはじまり」(東京、東郷青児記念・損保ジャパン日本興亜美術館 9月6日〜11月9日)から取材しました。


2014年7月15日火曜日

牛膓達夫個展 [ひとつ、ふたつ、そして] <メタル・アート・ミュージアム 光の谷>

Inter-text 連載「見ることの誘惑」(全53回)
第三十一回 「共に在る」感覚
牛膓達夫個展[ひとつ、ふたつ、そして]

テキストは、現在、鋭意、作成中です。
近日中に、ここに公開します。
いまは、簡単なコメントを記しておきます。

千葉県印西市にある<メタル・アート・ミュージアム 光の谷>で、7月27日(日)まで、牛膓達夫の展覧会が開催されています。

印旛沼近くに位置するこの美術館は、小さいながらも、中に入ると不思議な空間に包まれ、外の田園と快い断絶とつながりを感じずにはいられません。

牛膓達夫の作品は、「在る」ことを通して、「非在」を現前させるといった、魔術的な経験を、いつも、もたらします。
そのことによって、その場にいるわたしに、作品と「共に在る」とか、空間と「共に在る」といった、いま、ここの、生の充実感や高揚感を喚起させるのです。

たとえば、目下、話題の台北国立故宮博物院の「翠玉白菜」の「現物」を、長時間待ったとしても、自分のこの目で見てみたいと思うのは、どんなものかなといった感じで、たんに「見る」ためだけではないのではないでしょうか。
「現物」の「翠玉白菜」と、この場やこの空間と取り替え不可能な共存をしたいといった願望からだと思うのです。

牛膓達夫の作品はこうした「共に在る」感覚をわきおこさせながら、現代アートの最大のプロブレマティーク「在ること」と「非在」の問題にアプローチし続けています。

とりいそぎ、<メタル・アート・ミュージアム 光の谷>での展示の三つのシーンを掲載しておきます。





Metal Art Musem HIKARINOTANI
※画像は、現在開催中の「<メタル・アート・ミュージアム 光の谷>[ひとつ、ふたつ、そして]牛膓達夫」(2014年6月28日〜7月27日)から取材しました。


2014年6月11日水曜日

円山応挙 「藤花図屏風」 根津美術館ー立ち上がる、すだれる。舞う、うねる。(後編)ー


Inter-text 連載「見ることの誘惑」(全53回)
第三十回  立ち上がる、すだれる。舞う、うねる。(後編)
円山応挙 「藤花図屏風」  六曲一双 江戸時代 根津美術館 東京

早見堯

  円山応挙 「藤花図屏風」  六曲一双 江戸時代 根津美術館 

円山応挙「藤花図屏風」と、尾形光琳「燕子花図屏風」を同じ部屋のなかで見ると、ずいぶん趣が違うことがよくわかる。

光琳「燕子花図屏風」の燕子花は、重力に逆らって垂直に立ち上がる緑の葉に対して、空間に浮かんで漂う藍色の花。
茎と葉とで緑色に差がつけられている。花も濃淡二色の藍色。
応挙「藤花図屏風」では、重力にしたがって垂れる藤の花に対して、空間を上下や前後左右にくねりながら舞うかのような幹。細密に描かれて静かに垂れ下がる藤の花と、いわゆる「付けたて」法で一気呵成に描かれたからなのだろうか、スピード感のある幹。
光琳の葉と花の関係は、応挙では花と幹との関係に対比することができる。
その結果、光琳の燕子花では上昇と無方向的な漂い、応挙の藤では下降と上下と前後への乱舞といった風情をかもしだしている。

けれども、一方で、両方の屏風の背景の金地は平面性と微妙な輝きとで、燕子花と藤を屏風の画面にがっちり位置づけさせると同時に、逆に、自由な上昇や漂い、下降や乱舞をひきたててもいる。
ここは、逆かもしれない。
藤の花が垂れ下がったり、幹がくねったりといったことは、現実の束の間の出来事でしかない。
特に花が開くのは一年間のほんの短い期間だ。
藤の花を愛で、幹の乱舞に心を動かされるとしても、それは、世界の片隅でたまたま生まれ、すぐに消えてなくなる現象でしかない。
身近な日常の断片でしかない藤の花や幹は、背景の金の、現実を包み込み、そして現実を越えて泰然自若とした不変の宇宙の匿名的な輝きの引き立て役であるかのようにさえ感じさせる。
背景の金が釈迦の手のひらだとしたら、手のひらの上の悟空が藤の花や幹ということだ。
屏風の右でも左でも、藤は屏風の上下で断ち切られている。左隻では屏風の左でも断ち切られている。
広い宇宙の一断面、束の間の視野のなかの出来事だと感じさせる。
なんだか、芭蕉の「不易流行」を想いだしてしまう。
移り変わる幻のような日常に流行する出来事と、それを包み込む不易の宇宙。
そんなシーンを想像してしまう。

あるいは、そもそも、応挙「藤花図屏風」は、屏風という物理的に限定された画面のなかで完結することを拒否しているのではないだろうか。
限定された矩形の画面という前提がなければ、中心もあるわけがない。
いわゆる統一されたコスモスにはなりえない。
一点透視図法の遠近法を想いおこしてみればすぐに了解されるが、線遠近法は奥行きの表現以上に、限定された画面に描かれたもう一つの現実世界に、統一や秩序を与えることがより重要な役割だった。
応挙「藤花図屏風」では、いろいろな意味での統一性がない。中心がないからだ。
これこそが日本の絵画のほとんどに見いだされる基本的な特質ではないだろうか。

もっと別なシーンもある。
上昇と無方向的な漂いとか、下降と上下前後への乱舞といった対立する力と動きの絡み合いは、見ていると凛とした感情をかきたてられる。
そうすると、別なイメージへと連想が広がっていく。
応挙の藤、特に幹は水墨画で描かれる龍をイメージさせる。
応挙自身の龍もある。それとは少し雰囲気が違う。
永徳とか等伯、あるいは蕭白のなどの龍のイメージを想い浮かべてみる。藤の幹が龍なら、藤の花は雲ということになるだろうか。
応挙の藤の幹は、ことさらに静止的な花に対抗して動的に描かれているような気がする。
東京国立博物館にある「振袖 鶸色縮緬地桜藤菊尾長鳥模様」では垂れ下がる藤の花は左右に揺れた状態で織りこまれている。その方が他のモチーフと関係をつけやすいためだろう。他のモチーフの桜や菊、尾長鳥などとゆるやかに融和している。
左右に揺れることなく垂直に垂れ下がる応挙の藤の花は、だから、幹に鋭く拮抗していることになる。



描かれた松、特に雪をいただいた松は、応挙の藤にもっと似ているかもしれない。
三井記念美術館の「雪松図屏風」左隻の雪松と応挙「藤花図屏風」右隻の藤花はとても似ている。



雪の重みで下に垂れる松の葉叢,右上に向かう太い幹に対抗して水平方向から少しずれて左下に向かう幹。木の枝振りの定番が踏襲されているにすぎないとしても、藤の幹のくねる乱舞よりも力強い動きを感じさせる。
応挙の藤花に比べると、冷たい雪をおおらかに受け止める骨太で、ゆったりとした雰囲気をかもしだしている。

円山応挙の「藤花図屏風」を尾形光琳「燕子花図屏風」と比較しながら見ていくと、単独で見たときとは違った発見があり、多様な感情的な経験をもたらしてくれたのだった。

円山応挙の「藤花図屏風」と尾形光琳「燕子花図屏風」を見てから、すぐ後、国立新美術館で中村一美の絵画を見た。

拮抗するモチーフ、作品を見てかきたてられる感情、そしてなによりも画面の中で完結することのない空間や中心のなさなど、応挙やそれ以外の日本の絵画に想像が広がっていくのは、とても爽快だった。
中村一美の絵画を初めて見たのは、1985年の東京芸大会館での「風景展」だったのだろうか。力強いY型が印象的だった、力のある絵だと思いながら躊躇する気持ちもあった。あからさまに象徴的であると同時に具体的な垂直のモチーフを感じさせられることに戸惑ったことを憶えている。以後、藤野の野外の立体や、昨年の南天子の「聖」を見ても、Y型がなぜか鮮烈によみがえってくるのだった。
国立新美術館で今年の3月から5月にかけて開催された「中村一美」展を見て、Y型がはじめて納得できた。すると、あらたな眼差しで中村一美の絵画を見ることができるようになった。

逆さまにすると少女の顔が浮かびあがるかのような、逆カンディンスキー体験をもたらす「存在の鳥」を含めて、次回は「中村一美」展について書いてみたい。
(はやみ たかし)