児玉靖枝 「深韻ー風の棲処十五」
2012年 キャンヴァス・油彩 145.5×145.5cm
ものの「気配」と自分の「気分」との区別かあいまいになることはないだろうか。
ジョルジュ・ローデンバック「死の都ブリュージュ」の主人公ユーグの気分と雨のなかに朽ちていくかのようなベルギーの古都ブリュージュの街の気配。
あるいは、モーリヤックの「テレーズ・デスケイルゥ」のテレーズとフランスのボルドー近郊、ランド地方に吹きすさぶ冬の松林はどうだろうか。
東京、自由が丘の画廊で、秋の午後の陽ざしのなかに現れてくる児玉靖枝の絵画に取り囲まれて、そんなことを思っていた。
黄葉とそれを取り巻くシルバーグレーとが溶け合って、不思議な気配を醸し出している。
その気配は秋の陽ざしにおおわれた高い天井の部屋にいる私自身の気分のようだった。
形ではない気配や気分は、何かがあるというのとは違う、物や形のない動詞型の「存る」を紡ぎだす。
1917年秋の終わり、初めてニースを訪れたマチスが、鈍く、そして深く輝く地中海に感じとったのも、こうした「存る」のざわめきだったのではないだろうか。ふと思ったりせずにはいられない。
アンリ・マチス「窓辺のヴァイオリニスト」
1917-18 ポンピドー・センター パリ
暗いわけでもなく、明るくもない、鈍く深い児玉靖枝の絵画の輝き。
マチスの「窓辺のヴァイオリニスト」と同じように、絵画と私の両方に「存る」の静かな動きを立ちのぼらせるのだった。
(はやみ たかし)
※gallery21yo+jの児玉靖枝「深韻ー風の棲処」展(2012年10月4日~10月28日)から取材しました。