ジャクソン・ポロック「インディアンレッドの地の壁画」1950年 キャンバス 油彩、エナメル塗料、アルミニウム塗料 183×243.5cm テヘラン現代美術館
赤褐色の「地」の上に、主として白、エナメル塗料の黒、アルミニウム塗料の銀の線などの三種類の線が重ねられている。それらの間隙を縫ってオレンジや黄、青色がそこここに小さく散りばめられている。
絵画の前に立ったとき、木立に囲まれて風でうねる樹木の枝々の揺らめきを見あげているときの気分に似ていると、ふと思った。線を見ているわたしのまなざしと、まなざしにつながっているわたしの身体とが線の動きにいつの間にかあわせていることに気づいたのだ。画面が生みだす律動や鼓動にわたしの身体が引きこまれてしまうのだろうか。
細部に目をやると線が形象を形成している様子はない。名詞的な形象は見当たらないので、身体が同調しているのは動詞的な線の痕跡の動きだ。それらの線が展開されているインディアンレッドの「地」は、梢をわたる風になってわたしの前に現れてくる。
見ていると徐々にテンションが高くなる。気分が高揚する。けれども、サスペンスやスリラードラマのテンションや高揚感ではない。不条理ドラマを見ていて意味を失ったオノマトペーが鳴り響いているかのように感じられる経験に似ている。
オレンジや黄、青色はいくぶんアクセント的に働いて、白や黒、銀の線だけだった場合の切迫した物質的な雰囲気をやわらげている。そのあたりが、同じ1950年に制作されたニューヨーク近代美術館の「ワン、31番」やメトロポリタン美術館の「秋のリズム、30番」などとは違うところだ。
オレンジや黄、青色がなければ「地」の赤褐色と白や黒、銀の物質的な線とが離れ過ぎてしまうのではないか。白や黒、銀の線を赤褐色の「地」とオレンジや黄、青色がはさみこんで融和させている。そうでもしなければ、エナメル塗料の黒やアルミ塗料の銀の物質感は形象に見えるのを拒絶するばかりか、線としてさえ見えてこないで、即物的な物質感の強い痕跡になってしまいかねない。
即物的な絵の具の物質感は、わたしたちの論理的な思考や安定した感じ方を脱臼することがある。ポロックの黒や銀、そして白の線はそうした物質の働き方に近い。形象はもとより、視覚的な線であることさえも越えて、感覚可能な線の臨界点で限りなく物質に近いポジションで成りたっている痕跡なのだ。そして壁画のように見ているわたしに正面から立ちはだかっていた。
ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」の9個の目が見る者を正面から凝視していたのを想いだす。ポロックの白や黒、銀の線も正面視でわたしたちと目をあわせる。黒や銀、白の線は混じりあわないで、「地」と三種類の線が個別に関わってトリプルイメージになっている。そうでなければ横にずれて滑っていくばかりだ。
こうしたことは、今回のポロック展に展示されている横長画面に黒の線の「かたち」が三つ並置された、シュトットガルト州立美術館のエナメルの黒だけの「無題」(1950年)によく示されている。三つの「かたち」は「かたち」としてそれぞれの内部に向かって閉じているのではない。アンリ・マチス晩年のペーパー・カットアウトのように外部の「地」に開かれている。だから、三つの「かたち」は離れたまま「地」を通して結合されているのである。
ポロックがキャンバスを床に水平において制作したのは、キャンバスの「地」の文字どおりの地面のような連続性と、キャンバスと自分の身体とのつながりを、垂直に立てたキャンバスよりもよりはっきりと感じたかったからに違いない。すぐ後に展開される画面に絵の具が染みこむステイニング技法はここから始まった。
※愛知県美術館と東京国立近代美術館で巡回開催されている「生誕100年ジャクソン・ポロック展」から取材しました。