2012年2月4日土曜日

草間彌生 有限な網目、サイト・スペシフィックな水玉

 
       草間彌生「No.H.Red1961年 カンヴァス 油彩 東京国立近代美術館

今年の10月からパリのポンピドゥー・センターでも個展が開催されている草間彌生。なんといっても「網目」だろう。

2012年早々に開催の国立国際美術館での個展は「永遠の永遠の永遠」とタイトルがつけられている。草間彌生自身は「無限の網」と繰り返し語っている。永遠と無限、果てのなさ、エンドレスということだろう。

東京国立近代美術館の三枚パネル「No.H.Red」は有限な画面に網目が波打ちながら連なっている。
似てはいてもおそらく同じ網目のかたちはないのだろう。見ていると波打つリズムに巻き込まれ、目が上下左右斜めへと、とりとめもなく、さまよわせられる。たわんだり歪んだりしても連続した網目なのでとても平面的だ。平面的なので一挙に有限な画面のすべてを把握できる。
瞬時にとらえた画面の細部で網目が波打ち揺らいでいる。全体と細部のこの差異にいくぶん陶酔的な気分にさせられる。細部のざわめく多数多様な網目に対して、すぐに視野におさめてしまえる画面の全体は有限なのである。
けれども、「網目」はそれが描かれた場を征服してしまう。

「水玉」は逆に場のなかに消えてしまうような気がする。
2011年の後半、東京のワタリウム美術館で開催されていた「Kusama’s Body Festival in 60’s」の3階展示室ではそう感じた。

ワタリウム美術館「Kusama’s Body Festival in 60’s」のサイトに掲載されている水玉を体に施して水玉突起物の上に腹ばいになっている草間彌生の写真を見てみると、多少、実感できるかもしれない。

1994年に横浜美術館での「戦後日本の前衛美術」展に展示されていた草間彌生の「かぼちゃ」は万華鏡だったことを想いおこす。装置としての無限や永遠なのだ。
「網目」は平面性の固有な特徴を掘り起こし、「水玉」はサイト・スペシフィックな美術の可能性を示唆している。そこが魅力的だ。