<ダミアン・ハースト「知識の木」、マッシモ・バルトリーニ「オルガン」、チョン・ジュンホ「弥勒菩薩半跏思惟像」、横浜美術館コレクションのコプト織裂>
11月6日まで開催中の「ヨコハマトリエンナーレ2011」は、参加作家のエネルギーとディレクターの冷静なキュレーションとのバランスがすばらしい。一つ一つの作品を越えたクリエイティヴィティが生まれていた。
そのなかから一つ、横浜美術館のドーム型の天井をもった円形の展示室をとりあげてみたい。
ダミアン・ハースト「知識の木」、マッシモ・バルトリーニ「オルガン」、チョン・ジュンホ「弥勒菩薩半跏思惟像」、それに横浜美術館コレクションのコプト織裂が展示されている。
「クール」イギリスを代表するダミアン・ハーストは2点の円形カンヴァスと1点の尖頭アーチのカンヴァス。一見してステンドグラスの窓だと思ってしまう。特に尖頭アーチ型のカンヴァスはゴシックの聖堂のステンドグラス窓に見える。
近づいて見ると、羽を広げた状態で蝶がびっしり貼りつけられているので驚く。光をしみこませて聖なるイメージ、とりわけキリスト教の殉教にまつわる「死=聖性」を出現させる聖堂のステンドグラスが標本状態にされた蝶の死体と重なる。ステンドグラスと蝶は言葉の「語呂あわせ」のように重なりあう。
蝶は物語的な想像力をひきおこさせるのではない。蝶はそのまま水平に横にずれ、蝶のままでステンドグラスになる。物質的な想像力といってみたい。
これと似た経験はハーストの展示壁面のすぐ右のマッシモ・バルトリーニ「オルガン」でもおこる。工事現場の足場に使われる鉄パイプが組み上げられて、そのなかで轟々とオルガンの音がドーム状の展示室に鳴り響いている。鉄パイプとオルガン。文字通りの語呂あわせで「パイプオルガン」。その場所で、クロス型に建築されたキリスト教聖堂の中央、ひときわ高いドーム天井に向かってパイプオルガンの音と共に身体が上昇していくかのような幻覚にとらえられたのはわたしだけだろうか。
「オルガン」はハーストの「蝶=ステンドグラス」と相乗された経験になる。
「オルガン」から振り返ると展示室の二つの出入り口に挟まれた壁の前に、チョン・ジュンホ「弥勒菩薩半跏思惟像」とコレクションのコプト織裂が目に入る。
骸骨になってしまったチョン・ジュンホの弥勒菩薩。仏教が伝えている56億7千万年修行を積んだ果てに悟りをえるはずの思惟する弥勒菩薩は悟りきれないわたしたちに近い修行者だ。死んでもなお思惟することを通して修行することをやめない。死と生の断絶よりも連続を感じさせないだろうか。ここでは死と生とが弥勒菩薩において重なりあっているといってもいいだろう。
コプト織裂がもたらす経験も似ている。キリスト教黎明期のエジプトのキリスト教徒が死者のために綴ったコプト織裂。織られているのは羊飼い(イエス)や無限の繰り返し(聖性)を思わせる図像だ。そうした図像の物語的な連想作用はそれほど重要ではない。今、現在も朽ちて続けている物質としての織裂を侵食して非物質へと変貌させようとしている時間の力を感じることの方が重要だ。「物質=存在していること」と「非物質=非在であること」とが、本来ありえない語呂あわせとなって重なっている。
見事にキュレーションされた円形展示室では、4種類の作品が、それぞれに物質的想像力を喚起させる。同時に、4種類が重なりあってこの場所でしか成り立たないサイト・スペシフィックなカルテットを演奏している。このカルテットは「水平的アレゴリー(寓意)」だといってみたい(ハル・フォスターやグレゴリー・L・ウルマーを参照)。
蝶とステンドグラス、鉄パイプとオルガン、弥勒菩薩の死と生、コプト織裂の物質と非物質。モチーフがそのままで、横に水平にずれて、もう一つのイメージとダブルのだ。たとえばイソップ物語にみられる当のモチーフやテクストをダミーにして教訓を指示するような喩えとしてのアレゴリーなのではない。
「水平的アレゴリー」はほかにも見られる。横浜美術館のこの展示室は普段はミロやダリ、エルンスト、デルボーらのシュルレアリスム系の展示室だった。美術館という「場所の記憶」に蝶のいる草原、鉄パイプの工事現場、弥勒菩薩の寺院、コプト織裂の墓なども重なってくる。こうした「水平的アレゴリー」はアプロプリエイションといってもいいのかもしれない。
わたしにはこの「水平的アレゴリー」自体に、さらに、もう一つ別の方法が重なりあって見えてくる。モダニズムの一つの頂点を示していたのはミニマリズムとコンセプチュアリズム。そこでのきわだった方法はトートロジー(類義反復)とセルフレファレンス(自己参照)だった。ここでのポスト・モダニズム風な「水平的アレゴリー」はモダニズムのトートロジーやセルフレファレンスのリサイクルなのではないか。
そうすると、ハーストらのYBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)は1950年代のリチャード・ハミルトンらイギリス・ポップ・アートのリサイクルかも・・・。では、日本の「クール・ジャパン」はなにのリサイクルだったのだろうか。わたしのささやかな脳内クリエイティブ空間に多数多様なシミュラクルが合わせ鏡の像となって、蝶のように乱舞し、パイプオルガンの音楽のように共鳴し始める。弥勒菩薩の思惟も同じようなものだろう。