高松次郎「日本語の文字」
1970年 オフセット 紙 61.6×25.4cm 東京国立近代美術館
「日本語の文字」は、わたしの勝手な推測だが、タイプライターで打ち込んだ文字か、それとも活字を組んで印刷した文字をオフセットで印刷したのだろう。2年後のアルファベット文字を組み合わせて繰り返した「THE STORY」ではゼロックスコピーが使われている。「日本語の文字」でもオフセットで印刷する前に拡大コピーのプロセスがあったに違いない。
オフセットといっても、いわゆる当時の軽オフセット(?)だからなのか、あるいは印刷する前に何度も拡大コピーを繰り返したせいなのか、文字の輪郭がかすれて不規則になっている。紙のいたるところにインクの染みもある。じっくり見たのは3年前の「わたしいまめまいしたわ」展(東京国立近代美術館)だ。
インクの染みは視覚的な芸術性、いいかえると視覚的アクセントだとはわたしには思われない。むしろ、「この七つの文字」という印刷文字が指示する「この七つの文字」という意味内容を脱臼させ、空虚にさせている原因のように思われる。
「この七つの文字」だけに注目し「ことば」や「文」などの記号として理解すると、印刷文字「この七つの文字」は意味内容「この七つの文字」を指し示している自己言及、あるいは類語反復(トートロジー)だということになる。
「指し示すものと指し示されるものが同一であることによって生じる循環が、人に、合わせ鏡の無限廊下に立ったときのような目眩を覚えさせる」(三浦雅士「高松次郎の現在」展図録、1996年)。
なるほど。でも、わたしはそう思わない。「ことば」や「文」の意味は文脈の効果にしかすぎないことを忘れてはならない。「日本語の文字」は版画であり、美術という文脈でプレゼンテーションされている。哲学的アフォリズムでもなければ、文学的な言語表現でもない。白紙にただ「この七つの文字」が置かれているだけではないからだ。
文字の輪郭のかすれや不規則なぎざぎざ、繰り返されるコピーのプロセスを経たので小さな汚れが徐々に鮮明になった染み(1970年前後のありふれた手法だ)などの視覚にさしだされているもの。こうした印刷のインクの痕跡、それらの色と形こそが、色と形という記号性が故意に薄められていようとも、この版画作品で注目すべきところだ。
そこに注目すると、インクの痕跡は痕跡がつけられている紙とともに、わたしの眼前に迫りだしてくる。「この七つの文字」の意味は脱臼され空虚になりながら遠のいていく。次の瞬間には意味が近づき痕跡と紙が遠のく。「目眩」を覚えるのはこの二つの作用の繰り返しが原因なのだ。意味と痕跡、もしこういってよければ記号性と物質性とのズームレンズのようなシーソーゲーム。
夏目漱石の「坊ちゃん」で文字のインクの濃度やかすれ、染みに注目していてはマドンナの美貌は想像できない。小説で文字の視覚的な物質性に着目したのはル・クレジオぐらいだろうか。
美術作品を見るということは、実は、さきほどの「見る」ことのシーソーゲームに目眩しながら自分の意識や考えを革新していくことなのだ。
「この七つの文字」から、1980年代初め、銀座の鎌倉画廊で見たジョセフ・コスースのネオン管による「five words in five colors」をわたしは想いおこす。当然のことだ。けれども、「日本語の文字」はコスースのコンセプチュアル・アートのように「わかる」ことを問題にするために、「見えている」視覚的内容のテーストを名ばかりのもにしてはいない。
高松次郎の意味と痕跡、記号性と物質性との危うい葛藤。拡張して考えると、美術作品での空間的イリュージョンと物質的な材料、絵画での描かれた表面と描かれるべき表面(支持体)、そして、それらの淵源にある「図」と「地」との関係などといった、現代美術を貫いてきたメイン・テーマにつながっているのである。
早見堯