第五回 フィンセント・ファン・ゴッホ「ドービニーの庭」
1890年 油彩、カンヴァス 53×104cm 財団法人 ひろしま美術館
生きられる場所
パリから50kmほど離れたオワーズ川のオーヴェールでゴッホはガシュ医師に出会う。死ぬ2ヶ月前の1890年5月のことだ。妻を亡くしたガシェやその娘の肖像画を描く。
彼らは、「なんの下心もなく、芸術のための芸術を愛し、自分の全知性を傾けて仕事に協力してくれる」(ゴッホ書簡638)。
ゴッホが敬愛してやまない今は亡き画家ドービニーの夫人も「近代建築」の館と美しい庭と共にオーヴェールに健在だった。死の前、束の間の安堵をえたのだろうか。
ゴッホ特有の(ムンクもそうだが)有角視透視風の短縮遠近法とそれとは異質な正面視の面との組み合わせが、ドービニーゆずりの横長画面に展開されている。
画面中央下部のバラの花壇や右側の塀や柵、リラ、菩提樹などは斜めに後退していく。
逆に、画面左側下部の白味の強い切り株につながる明るい緑の樹木と、それに重なる暗い緑の樹木は画面に平行した正面視の面になって上部の館につながる。
館の前の暗い緑の菩提樹とそれを間に挟んだ二本の明るい緑の菩提樹は、二つの対抗する空間を融和させている点でこの絵画の象徴的な部分だ。
画面右下から左上に向かって後退するかに思われる空間は館や左の重なる樹木とともにぐっと手前に引きだされる。アトリエ舟で川に包まれながら川岸の光景を描いたドービニーのように、前進してくるドービニーの館と庭の「内部に」ゴッホ自身が包まれているのかもしれない。
館の前の明るい緑の菩提樹に重なっているドービニー夫人とゴッホとが対面するのもこの前進してくる庭の空間の内部でなのだ。
夫人のそばにある「不在」の三つの椅子。12年前に亡くなった画家ドービニーと夫人、そしてゴッホが座るのだろうか。「生きられる場所」、とゴッホは感じたに違いない。
有角視透視で遠のく現実と、正面視で前進してくる死も生もおし包んだ「生きられる場所」。
14年後、詩人ライナ・マリア・リルケの分身マルテは「僕を入れてくれる屋根はどこにもない」とパリで嘆く(「マルテの手記」)。
うつ病か不定愁訴といった雰囲気のマルテは、生の気配が失われた診療所を「ついに僕は、僕の人生のなかで、腰をおろすべき場所に来てしまった」と感じたりもする。
束の間のやすらぎをえたはずのゴッホは、しかし、この絵を描いてた4、5日後、「そうだ、自分の仕事のために僕は、命を投げ出し、理性を半ば失ってしまい・・・」と記さなければならなかった。診療所のマルテと同じ気分だ。ゴッホはその日に自殺する。
妥協しない自分の「美的趣味(エステート)」を貫いて自由意志で生きる芸術家は典型的な「近代人」、高等遊民だ。
ゴッホよりも少し後に、夏目漱石が「それから」や「三四郎」、「明暗」などで描き出したのも、こうした「近代人」の「病」だったに違いない。
わたしたちは、こうした「病」から自由でいることは、今、可能だろうか。