2010年12月5日日曜日

二つの表面、そして・・・クロード・モネ 「睡蓮の池」

水面に浮かぶ睡蓮の葉と花。池の向こう岸の柳とポプラ、そして夕陽に映える空は水面に鏡像となって映っている。
睡蓮は画面の下から上に向かって小さくなり、奥行きが生まれている。
柳とポプラは画面に対して上下方向、睡蓮は左右方向でストロークや形が展開されて、鏡像と睡蓮との違いが強調されている。

「図」と「地」の関係からすると、睡蓮が「図」で水面は「地」。柳とポプラ、空は水面に映っているイメージなので「地」、背景ということになる。
水面に鏡像と睡蓮とがつくる二つの表面がうまれている。

じっと眺めていると、二つの表面の間の目眩するようなシーソーゲームに巻きこまれていく。
睡蓮の表面にくらべて、柳とポプラ、空の表面は画面の平面に平行している。
柳とポプラ、空は水面に映る鏡像としてのイメージなのに、画面の表面に平行し画面の表面にくっついているように感じられる。だから、画面から傾斜した睡蓮が形成する表面よりも、実在のたしかな手応えがある。

睡蓮が浮かぶ表面を支えているのは「地」であり背景である柳とポプラ、空がつくる表面だ。「図」としての睡蓮は鏡像の柳とポプラ、空が支えている空間に浮かんでいる。
イメージとしての鏡像よりも物としてそこにあるはずの睡蓮の方が移ろう束の間のイメージだと思われてくる。
そうすると、二つの表面の間に広がり深まる無窮の空間に吸いこまれそうになる。

手で触ることはできず、目で見るしかない無窮の空間。それが水面だ。
二つの表面の距離がとらえがたいのはもちろんのことだが、見ているわたしと表面との距離もあいまいになる。

アントン・エーレンツヴァイクが、アメリカの抽象表現主義の巨大な絵画を前にしたときの経験を語った「完全な空虚でありながら強烈な感情が充満した」充実した空虚とは、この無窮の空間である。

ナルシスが惑わされ、ヒュラスが魅入られた水面は足利義政が月をとらえようとした銀閣寺の池の水面と同じなのだろうか。
無窮の空間としての水面が見ることへとわたしを誘いつづける。モネはこの水面、そして水面のメタファーとしての絵画にとらえられたのだった。

※クロード・モネ「睡蓮の池」(1907年)はブリジストン美術館のコレクションで常設展示されています。 
ブリジストン美術館  東京都                                            http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/index.php?mode=name
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2010年12月3日金曜日

気化するタッチ、結晶化する表面 サム・フランシス「無題」 川村記念美術館

※川村記念美術館図録より転用

ヴァイオレットがかったブルーとイエロー・オーカーだろうか。共に同じ程度に彩度が落とされている。基本的には正反対の色相だ。
二種類の色相の不定形なタッチが画面の全面を埋め尽くし、揺れ動き、震動している。
タッチによって生みだされた不定形な色塊は、文字通り不定形でさまざまなタイプがある。画面の上下方向が多いが、いくぶん傾いたり、左右方向で展開されている色塊もある。
油絵の具が薄く溶かれているのだろう。カンヴァスの表面に絵の具を塗って描いたという感じではない。柔らかい触手が表面を掠め撫でたとでもいってみたい。しなやかなドゥローイングのタッチだ。

不定形な色塊は画面の左右上下で揺れ動いているだけではない。
それぞれの色塊は片ぼかし風になっていて、一つの色塊のどこかで画面の表面に浸透して溶解するか、別の色塊に浸透して溶解している。だから、画面の奥と手前でも震動している。半透明なガラスの破片が重ねて並べられているような感じだ。どれが奥でどれが手前かを判別できない。じっと見ていると、色塊はフェード・インとフェード・アウトを繰り返して、画面の表面から出現したり、そこに消失してしまったりする。
ピカソやブラックの分析的キュビスム絵画での片ぼかしでグラデーションがつけられた矩形の小さな「ファセット(切り子ガラス)」状の断片が、ここでは、タッチで展開されているといってもいいだろう。

タッチによる色塊は天から降り注いでくる雨滴、と思ってしまうかもしれない。けれども、それぞれの色塊は画面の下方に向かう絵の具の滴りの痕跡をもっている。だから、天から地上に向かって降り注ぐというよりも、むしろ、地上から天に向かって尾を引きながら上昇しているという方がふさわしい。それとも、宇宙空間をさまよう彗星だろうか。
尾を引く絵の具の滴りは、画面の表面につけられている痕跡だ。だから風船や水滴の色塊は、糸に似たその痕跡で画面という地面につながれている。
地面から湧出して、糸のついた風船が上昇していく。あるいは、水滴が空のブルーに染められ、時には、黄金の光を浴びてきらきら輝いて上昇する。上昇しながら風船も水滴も気体へと気化して風になって空に溶解してしまう。
画面の表面は、風船だったり水滴だったりする色塊がそこにつながれたまま舞いあがってフェード・インする地面でもあれば、吸い込まれてフェード・アウトする空でもある。両義的な役割をになっている。
ただ、この空と地面との幅はとても狭い。ブルーもイエロー・オーカーも彩度と明度を抑えられていて、画面の表面から離れないようにされている。だから、画面の上下左右でも奥と手前でも、ギューと押しこめられた色塊の、解放を求める抑圧されたエネルギーを感じさせられてしまう。

空でもあれば地面でもあるような画面の表面。わたしはモネの「睡蓮の池」の水面を想いおこさないわけにはいかない。
モネの水面の下には池の向こうの木々と空が垂直に突き刺さって反映し、水面上には睡蓮の葉と花が漂っていた。反映している仮象のイメージも実在の睡蓮も、共に水面から現れ水面に消えていく。水面は仮象と実在を出現させ消失させる空であり地面でもあるようだ。
サム・フランシスは、画家としての形成期に滞在したパリで、モネの「睡蓮の池」に触発されたのだろう。
空でもあれば地面でもあるサム・フランシスの画面の表面は、モネの水面と同じように色塊を湧出させ、逆に溶解させる。
地面につながれたまま空に昇っていく途中で気化してしまう風船や水滴。海面に浮かぶクラゲを海中から見あげているようだ、といったら、あなたは笑うだろうか。
色塊を鈍い黄金色に輝かせているのは、空と地面の役割をになって、また同時に光でもある画面の表面なのだ。

これを描いた数年後に、サム・フランシスが「ホワイト・ライン」(出光美術館)や「輝く背景」(ニューヨーク、グッゲンハイム美術館)を描いた気持ちがわかるような気がする。

色塊を輝かせているのは、色塊それ自体ではなくて、色塊の出現と消失を支配している画面の表面だと感じたのに違いない。
地上から見あげる空のざわめきや、海中から見あげる水面のきらめき。それらは背景の輝きだ。
サム・フランシスのこの絵画は、こうした視覚の記憶と「ホワイト・ライン」や「輝く背景」とをダブらせずにはおかない。
上昇して風になってしまう気体を肌で感じ、降り注ぐ光に包まれて、大地に立って天空を見あげたまま震えながら揺れていたのは、サム・フランシスの絵画の色塊や表面以上に、絵画の前のわたしだったのかもしれない。

※サム・フランシス「無題」(油彩、1952年)は川村記念美術館のコレクション。常設展示されています。ブリジストン美術館コレクションのモネ「睡蓮の池」」の連作、別ヴァージョンも川村記念美術館に常設展示されています。
川村記念美術館 千葉県 佐倉市
http://kawamura-museum.dic.co.jp/

サム・フランシスについて、ブログ「アートが丘」も参照してください。