水面に浮かぶ睡蓮の葉と花。池の向こう岸の柳とポプラ、そして夕陽に映える空は水面に鏡像となって映っている。
睡蓮は画面の下から上に向かって小さくなり、奥行きが生まれている。
柳とポプラは画面に対して上下方向、睡蓮は左右方向でストロークや形が展開されて、鏡像と睡蓮との違いが強調されている。
「図」と「地」の関係からすると、睡蓮が「図」で水面は「地」。柳とポプラ、空は水面に映っているイメージなので「地」、背景ということになる。
水面に鏡像と睡蓮とがつくる二つの表面がうまれている。
じっと眺めていると、二つの表面の間の目眩するようなシーソーゲームに巻きこまれていく。
睡蓮の表面にくらべて、柳とポプラ、空の表面は画面の平面に平行している。
柳とポプラ、空は水面に映る鏡像としてのイメージなのに、画面の表面に平行し画面の表面にくっついているように感じられる。だから、画面から傾斜した睡蓮が形成する表面よりも、実在のたしかな手応えがある。
睡蓮が浮かぶ表面を支えているのは「地」であり背景である柳とポプラ、空がつくる表面だ。「図」としての睡蓮は鏡像の柳とポプラ、空が支えている空間に浮かんでいる。
イメージとしての鏡像よりも物としてそこにあるはずの睡蓮の方が移ろう束の間のイメージだと思われてくる。
そうすると、二つの表面の間に広がり深まる無窮の空間に吸いこまれそうになる。
手で触ることはできず、目で見るしかない無窮の空間。それが水面だ。
二つの表面の距離がとらえがたいのはもちろんのことだが、見ているわたしと表面との距離もあいまいになる。
アントン・エーレンツヴァイクが、アメリカの抽象表現主義の巨大な絵画を前にしたときの経験を語った「完全な空虚でありながら強烈な感情が充満した」充実した空虚とは、この無窮の空間である。
ナルシスが惑わされ、ヒュラスが魅入られた水面は足利義政が月をとらえようとした銀閣寺の池の水面と同じなのだろうか。
無窮の空間としての水面が見ることへとわたしを誘いつづける。モネはこの水面、そして水面のメタファーとしての絵画にとらえられたのだった。
※クロード・モネ「睡蓮の池」(1907年)はブリジストン美術館のコレクションで常設展示されています。
ブリジストン美術館 東京都 http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/index.php?mode=name
ブリジストン美術館 東京都 http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/index.php?mode=name
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