2013年12月10日火曜日

生産する身体  ギュスターヴ・カイユボット「ヨーロッパ橋」


inter−text「見ることの誘惑」第二十六回

ギュスターヴ・カイユボット「ヨーロッパ橋」
1976年 油彩 カンヴァス アソシアシオン・デ・ザミ・デュ・プティ・パレ ジュネーヴ

              
ギュスターヴ・カイユボットの「ヨーロッパ橋」は不思議な絵画だ。
曖昧な表現が多くて謎に満ちていると指摘されてきた。

一見した印象はこんな感じだろうか。
線遠近法による深まっていくパリのウイーン通りに市民や労働者といった、フランス革命と産業技術革命後に誕生した新しい種類の人々が描かれている。散策したりすれ違ったり、眺めたりしている人々。単独で散策する犬も登場している。蒸気機関車とそれがはきだす煙や蒸気。なんといっても、格子状の鉄橋は存在感がある。格子の向こうに別な通りの鉄橋の格子も見える。ウイーン通りの彼方には「近代建築」の建物も現れている。
線遠近法的にとらえられたパリの街は無機質で冷たいようでもあれば、はなやいでいるようでもある。正反対の雰囲気が漂っている。

わたしは、今回、はじめて「ヨーロッパ橋」を見て、ふと、クロード・モネの「アルジャントゥイユの鉄橋」(1874年 フィラデルフィア美術館)を想いださないわけにはいかなかった。


「アルジャントゥイユの鉄橋」は低い視点から川と鉄橋が描かれている。鉄橋には産業技術革命の「生産」や「労働」を象徴する蒸気機関車が煙と蒸気をはきだしている。セーヌ川には「余暇」と「快楽」を象徴するヨット。
蒸気機関車を労働者、ヨットは中産階級だと読み替えてみたい。図式的に単純化すると、労働者は物品を生産し、中産階級は快楽を生産する。
身体というポジションから言い換えれば、労働の「身体」、快楽の「身体」だ。ジョナサン・クレーリーにならって「生産する身体」といっておくことにしたい。

カイユボットは、こうした「生産する身体」を文字通りの人の身体をもちいて表しているのではないだろうか。
鉄橋にもたれてサン・ラザール駅の方を見ている五人。そのうちの三人は橋の下から立ちのぼる煙と蒸気に包まれかけている。そして歩きながら鉄橋の向こうを見ている一人。あわせて六人のうち、四人は当時流行の鍔つきのキャスケットらしい帽子をかぶっている。労働者だと思う。
労働者が見ている鉄橋の右下には、労働する身体の象徴、蒸気機関車が見える。労働者は、自分たちの分身を眺めていることになる、・・・、というのは言い過ぎだろうか。労働者は鉄橋の上にいるにもかかわらず、鉄橋の下のサン・ラザール駅の蒸気機関車の社会的な意味の場に所属している。

こちらに歩いてくるシルクハットの人物、それに重なっている後ろの男性は山高帽なのだろうか。いずれも中産階級だ。
シルクハットの男性に絡んでいる女性もいる。二人の関係は判然としない。
口を開いていないのでしゃべっているようには見えないが、明らかに話しかけたり、話しかけられたりといったポーズだ。
意味が宙づりにされたかのようなこの男女二人。マネの「草上の昼食」の男女を思わせないでもない。いずれにしても、かねてから疑問の対象だったようだ。
わたしは、この二人は、ボードレールやベンヤミンの近代都市パリにしばしば登場するフラヌール(遊歩人)が散策しているときの束の間の出会いと別れのもたらす、もしこう言ってよければ、無目的的目的性としての快楽にふけっているのだと考えたい。当然、女性は娼婦ということもありうるだろう。けれども、それは、無目的的目的性、すなわち、自律的な快楽のポジションからはどうでもよいことだ。

カイユボットの「ヨーロッパ橋」とモネの「アルジャントゥイユの鉄橋」の、構図やモチーフの記号的な意味の近似性はあきらかだ。
でも、カイユボットとモネでは、関心はまったく異なっている。
カイユボットは身体が十分に動くことが可能な奥行きと広がりのある空間のなかでの「生産する身体」に関心を集中させている。

印象主義時代のモネは、人の身体にはあまり興味を抱いていない。人は、ポプラや蒸気機関車、ヨットなどと同じような絵画空間を構成するモチーフの一つでしかない。
モネの「ラ・グルヌイエール」では、人も水面のさざ波も似た大きさのタッチに還元されている。

よく知られているカイユボットの「床削り」と、モネの「石炭の積み降ろし」に描かれている労働者の身体と空間との関係を見れば、さらによく理解されるだろう。
カイユボットは親密な室内空間のなかでの人の身振りや関係に焦点をあてている。
モネの絵画では、人は画面全体の光と大気を盛り上げるシルエットにされている。

カイユボットは、いま、ここで、目や感情などによって何ごとかを「生産する身体」そのものを描いている。
モネは自分の「目」という身体で生産された光景を描く。モネ自身が「生産する身体」なのである。





今回のブリヂストン美術館での展覧会で展示されていた、「ヨーロッパ橋」と並ぶ、<パースペクティブの中の19世紀ヨーロッパの首都パリの人々>などと言ってみたくなるような「パリの通り、雨」、「建物のペンキ塗り」も、「ヨーロッパ橋」と同じように線遠近法的な深まる空間のなかで、身体を動かして、活動している人物が配置されている。




クロード・モネが使う線遠近法とは明らかに違った使い方だということがわかる。
モネの場合には、一方で、線遠近法的空間は、平面化するランダムなタッチの空間に観念的な奥行きをつくりだし、他方で、光がさざ波のようにちらちら揺れる不安定な絵画空間を引き締め、まとめ直す役割をになっている。

カイユボットはそうではない。
その空間に挿入された思い思いの振る舞いをしている人々の身体。それらの身体の振る舞いを可能にする空間を形成するための線遠近法的空間なのである。
しばしば指摘されているように、一点透視図法の線遠近法は、そこにある「対象」と認識する「脳」とが、直接につながっているような装置だ。だから、カメラ・オブスクーラと一点透視図法の線遠近法とが同じポジションから語られてきたのでもある。対象と脳との間の人間の目や感情が欠落している。
対象を加工し再生産する工場とでもいえる目や感情などの身体が介在していない。それが、一点透視図法の線遠近法なのだ。生きた人のまなざしは最初から排除されている。だからこそ、匿名的でユニバーサルなまなざしを獲得することができたのだった。黄金比のユニバーサリティと同じだ。
オスマン改造後の近代都市パリの新しい空間に戸惑いながら、目と感情を持った身体によって、線遠近法的な空間にはなやぎを与えているのがカイユボットの描く人々の身体なのではないだろうか。

とはいえ、「ヨーロッパ橋」のこの犬はなんだろう。
謎の多いこの絵画のなかでの最大の謎ではないか。犬でありながら、なぜ単独で、堂々と画面に侵入し、ウイーン通りを闊歩することができるのか。野犬風でもないのに、リードなしで散策していいのか。
これらの疑問を解決しなくては、「ヨーロッパ橋」を見たことにはならない。

末永照和さんは、クールベの「オルナンの埋葬」の犬などと比較しながら、「実存」としての犬だと指摘している。犬の「実存」とは、言いえて妙ではないか。

画面の下に後ろ脚がはみだしているこの犬は、この通りに、いままさに入りこもうとしている。この犬の後ろには飼い主がいるのかもしれない。犬も存在しているかどうか不明の飼い主も、実は、絵画を見ているわたしたち自身なのでは、と、思いたくなる。
この犬を、1892年の写真に写されているカルーゼル広場をカイユボットと散歩しているカイユボットの愛犬ベルジェールだと言ってみたい。でも16年の隔たりがある。年齢的に無理がある。

過去を忘れた振りをして、モダンライフを生きるのにふさわしく、「いま、ここ」で自らの決断を繰り返す「実存」の犬の姿に、わたしは、次の二種類のシーンを想いだすことを禁じえなかった。

犬とシルクハットの男性はまったく知らない同士とは思えない。でも、思わぬ遭遇といった雰囲気がある。
「ドミネ・クオ・ヴァディス(主よどこに行かれるのですか?)」のシーンに重ねあわせてみたくなる。
アンニバーレ・カラッチを想いだしたい。犬がペテロで、紳士の定番としてシルクハットをかぶっている男性が、十字架を担いでアッピア街道をローマに向かうイエス。人体デッサンの練習帳から抜け出してきたかに見えるイエスは、同じ雰囲気の使徒ペテロの問いかけに答えて、ローマを指差している。
危害をこうむらざるをえないローマから逃れようとしていたペテロにとって、イエスとの遭遇は、思いつくことができなかった未知の思考の示唆だったのだ。ペテロは驚き、たじろいでいる。・・・、日常でこんな人物に出会ったら、それだけで、かなりのサプライズだろうが。



もう一つは、ジョルジオ・デ・キリコ「街の神秘と憂愁」だ。
左側の空間から登場したリングを回すシルエットの少女は、そことは異質な、人物だか彫像だかの謎の影が投影されている右側の空間に入っていくかのようだ。
左側の建物と右側の建物の消失点が違う。だから左と右は交わることのない異質な空間なのである。
でも、空間のなかでつねに移動しているわたしたちの身体と視線に思いいたれば、「一点」透視の方が、逆に「驚きの美学」的空間だと言えなくもない。少女は、ただ単に、ある地点から別の地点へと移動しているだけなのではないか。つまり、異質な空間ではなくて、異質な時間を生きるフツウの少女、というようなことは、いま、ここでは、また別の話題だということにしておきたい。
少女を「ヨーロッパ橋」の犬だと、とりあえず考えておこう。



犬がペテロであれ、少女であろうとも、「ヨーロッパ橋」の舞台は、カイユボットの目の前に立ち現れ、そしてカイユボットの身体を包みこむ近代都市パリ以外ではない。日々新しくなっていくパリの空間は、どこに向かう、どういう空間なのか、カイユボットにも、ほかの近代人にも、いまいち判然としなかったのではないだろうか。
だとすると、「ヨーロッパ橋」の犬は、リードという束縛から解き放たれ、初めての未知の世界に歩み入るカイユボット自身だと考えるのが妥当だ。シルクハットの男性がカイユボットであることは曖昧にされている。それは、犬がカイユボットの分身だとみなしうることと関係があるだろう。

もっと立ち入って、次のように考えてしまうこともできないわけではない。
人間社会の階級に所属しない犬。犬は主人というリードから開放されれば自由になれる。しかし、逆に、犬はリードなしでは安心して自由を楽しめない。ダブルバインド状態だ。リードにつながれている範囲での自由を追求するしか道はない。
「ヨーロッパ橋」の犬のこちら側には描かれていない主人がいるのかもしれない。主人の庇護のもとでの自由人としての犬。
それは、親が残した資産という目に見えないリードに守られて、自由を生産し快楽を消費するブルジョワジー、カイユボットの憧れの姿なのだと考えることはできないだろうか。両親や弟の一人が亡くなったことによって多額の遺産を手に入れ、1880年代にプチ・ジュヌヴィリエに住まいを移して以後のカイユボットは、こうした憧れを実現したのだから。

犬としてのカイユボットは、自分がそこで生まれ、そこで生きている、日々更新され、リセットされるかのような近代都市パリのなかで、もう一人の自分(わたし)と未知との遭遇を経験しているのだということもできる。
目と感情を刺激し、フィーリングをかきたてる近代都市パリとの出会い。それは、「生産する身体」を通して、「わたし」にしか感じられない個人的な経験をすることなのだ。

カイユボットが「ヨーロッパ橋」で描いたのは、未知との遭遇を経験し、戸惑いながらヴィジョンや感情、物品、そして、大げさに言ってしまえば、マルクスやダーウイン、さらに世紀の末にはソシュールやフロイトなどの思想さえも「生産する身体」のさまざまな諸相だったのではないだろうか。
(はやみ たかし)

※ブリヂストン美術館 東京 「カイユボット展—都市の印象派」(20131010日〜1229)から取材しました。