2013年5月11日土曜日

貴婦人と一角獣 感覚と感覚を越えるもの


我が唯一の望み」(「貴婦人と一角獣」の一つ)


          「我が唯一の望み」(「貴婦人と一角獣」の一つ)
        約376×470cm 羊毛 絹 1500年ごろ クリュニー美術館

6点のゴブラン織りのタピスリー「貴婦人と一角獣」のなかでもっとも大きい。他の5点と同じように赤色と青色を中心に繊細で華麗な植物や動物が散りばめられている。左右に配置されているライオンと一角獣。
ここでは貴婦人は天幕のなかにいる。天幕には「我が唯一の望み」と記されている。貴婦人が首飾りをつけていないのはこれだけだ。侍女がもつ小箱から首飾りを取り出そうとしているのか、それともしまおうとしているのか。

ライナ・マリア・リルケは「マルテの手記」で「貴婦人と一角獣」6点すべてについて記述している。
「ここにつづれ織りがある。アベローネ、有名な壁掛けゴブランだ」と恋人に向かって語りかける。味覚、嗅覚、触覚の次ぎ、四番目にマルテは「我が唯一の望み」の前に立つ。
貴婦人は長いあいだしまいこまれていた鎖を取り出しているのだとマルテは思った。
「人は生きるためではなく、死ぬためにパリにやってくる」とか、「僕をいれてくれる屋根はどこにもない、雨は容赦なく僕の目にしみるのだ」といった調子でつづられる。
いまなら引きこもり小説とでもいえそうな「マルテの手記」を読んだのは、40年以上前のことだ。
心に傷をかかえて1902年パリに来て、ロダンの秘書になったリルケの分身がマルテなのだ。

「マルテの手記」のなかで「貴婦人と一角獣」が記述される直前にはこんなことが書かれている。
マルテだけを愛していたアベローネ。それに対して、マルテは一人の女、アベローネではなく、いわばアベローネの女性性を愛していたのだった。だから、二人の間には大きな埋められない距離があった。
アベローネはリルケがドイツで結婚して、子どもができたのに別れざるをえなかった彫刻家クララ・ヴェストホフなのだろうか。
マルテは想いのなかのアベローネと共に「貴婦人と一角獣」をめぐっていく。
だから、「mon seul desire(我が唯一の望み)」を「わがいとしき一人の人に」(大山定一訳、角川文庫 昭和3813刷)と解釈したのかもしれない。
一角獣はリルケ=マルテ、貴婦人はヴェストホフ=アベローネなのだろう。一角獣リルケに見つめられながら、長い間放棄したままだった愛の首飾りを再び小箱から取り出すヴェストホフ。
なんだかほろ苦い想いにとらわれる。
マルテ=リルケはパリの街をさまよいながら死と生、苦悩と愛の物語を織っていく。
わたしはマルテのように「貴婦人と一角獣」に感情移入することはない。「我が唯一の望み」の貴婦人は、首飾りをはずして二度と再びあけることのない堅い鍵のある箱にしまいこもうとしているところだと、わたしは思う。

感覚を刺激する装飾性と、自分の目で感覚した現実のリアルなサプライズ。1500年前後の西欧では、この二つは絵画や写本などのビジュアルでの新しいトレンドだった。
装飾性の典型はボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」や「春」、100年前の「ベリー公のいとも豪華な時祷書」のイラストレーション。リアルなサプライズは克明な細部に見飽きることのないヤン・ヴァン・エイクの「宰相ロランの聖母」や「アルノルフィニ夫妻の肖像」を想いおこしておきたい。
クエンティン・マセイスの「両替商とその妻」やヒエロニムス・ボス「愚者の船」や「快楽の園」を見れば、精神の光としての神よりも、黄金の光や美味美食の感覚的な快楽へと人々の目が向かっていたことがよくわかる。

こうした状況のなかに「貴婦人と一角獣」をおいてみたい。
視・聴・蝕・味・嗅覚、五つの感覚の寓意。それとは異質な宝飾品を排除した非感覚的なものの寓意「我が唯一の望み」という構図を思い描くことができる。

離婚したリルケがパリに到着した1902年から60年後、同じパリで、イヴ・クラインはロトロ・ウケルと結婚式をあげる。同じころの1月と2月、クラインは「非物質的絵画的感性領域の譲渡」の儀式を行った。金と引き換えに「非物質的絵画的感性」を譲渡し、金はセーヌ河に投げ捨て、領収書も燃やしてしまう。
「非物質的絵画的感性領域」も金も個人の所有から離れて、無にして全の世界に永遠に存在する儀式だ。
仏教が教えるように感覚的な色(現象)は空無なのだから。

1962年2月「非物質的絵画的感性領域」シリーズ4のNo.1
                     金をセーヌ河に投げ捨て、ブランクフォート氏に渡
            した領収書を燃やすイヴ・クライン

宝飾品を体からはずして異次元の箱に封じ込める「我が唯一の望み」の貴婦人の身振り。460年後、プチ・ポンやその向こうのサンミシェル橋が見えるノートルダム大聖堂前の広場を背にしたセーヌ河の河岸で金や領収書を消失させるイヴ・クラインの身振り。
リルケ=マルテを媒介にして、この二つの身振りが結びつけられるような気がする。

それから4ヵ月後、クラインは急死する。
6月6日のことだ。
地上的、感覚的で束の間の存在は、宇宙で永遠の非物質的な存在になるのだろうか。
さらに2ヵ月後にはクラインの愛の化身が誕生している。
死と生、苦悩と愛は繰り返されつづける。
「マルテの手記」や「貴婦人と一角獣」、クラインの儀式もまた完結することなく織られ続けるだろう。
(はやみ たかし)
フランス国立クリュニー中世美術館所蔵 貴婦人と一角獣」展(国立新美術館、2013424日~715日)から取材しました。